大阪ガスネットワーク

エネルギー・文化研究

  • サイトマップ
  • お問い合わせ

CELは、Daigasグループが将来にわたり社会のお役に立つ存在であり続けることができるように研究を続けています。

  • DaigasGroup

JP/EN

Home>コラム

コラム

コラム一覧へ

2020年07月13日 by 池永 寛明

【起動篇】「東京という袋」に、なにを入れるのか ― コロナ禍は大断層 (3)


そのホテルは「日本」を売りにしているが、どうも居心地が悪かった。コロナ禍前、有名なそのホテルは外国人観光客に好評といわれていたが、私には落ち着かなかった。日本の伝統文化に現代的視点を融合させているというが、大切なこと、バランスを欠いているような気がした。それは葛飾北斎などの浮世絵師に影響を受けたマネやモネやゴッホなど西洋画家が真似た浮世絵を日本人が見るときの違和感と同じ印象をそのホテルに感じた。インバウンドをターゲットに外国人目線で「新たな日本」をデザインしたのかもしれないが、芯が抜けているような気がした。

画像2


それはこのホテルだけではない。この10年、インバウンドブームに乗ろうと、「日本」を売りにした和食店や商店や観光施設が全国各地に作り変えられたが、大半が「偽物」のような気がする。なぜそう思うのか。変えていいことと変えてはいけないことがあるが、変えてはいけないことを変えてしまっていると感じた。だから「変」だった。


コロナ禍で外国人観光客が日本を訪れることができないから、当面は日本人観光客を呼び込むという戦略変更をとろうとしているが、「日本の偽物」に日本人は行くだろうか。不要不急のコロナ禍のなかで、偽物を日本人は選択するだろうか。さらには将来の外国人観光客を満足させられるだろうか。コロナ禍で本物が残り、偽物は淘汰される。このコロナ禍のなかで対症療法ではなく、「本物」とはなにかを考え、コロナ禍後に向けて、本物をつくり直し磨きつづけるという戦略を採ろうとしないのはなぜだろうか。


■「大学」は劇的に変わる
コロナ禍で、大半の大学の前期はオンライン講義になった。後期は元に戻すといっているが、どうなるか分からない。後期も大学のなかに入れずオンライン講義となるかもしれない。今年に入って家賃の高い都会のアパートに籠って、オンライン講義に向かい、アルバイトもできなく、ゲームでSNSで一日を過ごすならば、大学のそばに住んでいる必要があるのだろうか。実家に戻ろうと考えるが、都会から帰ってくるなと言われる。しかしリモートばかりになるんだったら、「どこにいてもよかったんじゃないか」とコストパフォーマンスに疑問を抱くようになる。そして大学って、なんなんだろうかとなる。


そもそも大学に進学するうえで、研究レベルや学問力で選択する学生は少ない。大半の学生や親は進学する大学を「大学のブランド」で選択し、「立地ブランド」が拠って立つ価値観となっていた。その大学は、どこの街、どっちの方面にあるかが重要であって、だから東京、京都、大阪に大学が集中する。これは学校マーケティングの帰結でもあるが、それでつくられた大学ブランドがコロナ禍で壊れようとしている。


かつては東京の大学というだけで箔がついた、東京の大学というだけで、ちょっと違った。それで就職にも有利となるとも言われた。大学で何を学び何を身につけたかはあまり関係なく、大学ブランドと、場合によればOBの多い部活の「ネットワーク」で就職できた。企業に入って、企業研修やOJTで鍛えるから、変に染まった学生よりも素直な学生の方がいい。ゼロからその企業の風土にあった人材へと鍛えるからと、むしろまっさらの学生の方がいいという企業もあった。企業は入ってくる若者の将来への「潜在能力」を重視していたところもあった。


コロナ禍で、就職・就活のカタチは変わる。「たんに大学に行っていた」というような大学生への社会的需要は蒸発する。もちろん一所懸命勉強している、研究している学生は社会的需要はある。しかしコロナ禍のなか企業に入ってもらってからじっくり育てるというような時間的余裕はなくなり、これまでの「潜在能力」ではなく、「顕在した能力」がある学生を選ぼうとする。コロナ禍で先が読めないから、今、備わった力こそ「価値」があるようになる。
そうなると、大学時代に大学生がなにをなすべきかは明らかである。大学がどう変革すべきかは明らかである。立地に拠って立つ価値観では、大学生は集められなくなる。


0610_ コロナ禍後に活用する人材


コロナ禍の社会観・企業観は、「半沢直樹」や「ハケンの品格」ではない。かつては受け入れられたドラマではあるが、もはや「時代劇」となる。かつて高視聴率をとった「ブランド」であっても、ずっと通用するものはない。


■「デパート」の袋になにが入っている?
かつて都心の象徴はデパートだった。コロナ禍での移動制約や営業自粛要請が解除されたが、都心人口はまだ戻らず、ターミナルデパートを訪れる人は元に戻らない。


そのデパートの「袋」が、「ブランド」だった。お客さまに土産をお持ちするとき、どのようなモノをお持ちするかも大切だが、どこのデパートの袋・包装でお持ちするかが大切だった。それぞれの地域で、絶大な威力を発揮するデパートの袋は違った。東京ではそこ、大阪ならばそこ、京都ならばそこ、仙台ならばそこ、福岡ならばそこのデパートの袋という暗黙のルールがあった。それを知らなかったら、「無粋」だった。本当は袋の中に何が入っているかが大切なのだが、それをお届けするまでの移動の間に、街を歩くなかで人々に見せるデパートの袋が大事であった。長い間、そういう時代がつづいた。


しかしそれは昔の話となった。魅力的な品物が都心以外の専門店で売られたり、店舗はなくネットでしか買えないものもでてきた。コロナ禍でその流れが加速している。こうしてデパートの袋は外を歩く人々の「ブランド」を高める「ブランド」ではなくなった。


品物が売られている「売り場」から、品物を買う「買い場」に購買スタイルの重心が大きく移行していこうとするなか、コロナ禍となった。デパートの営業自粛、緊急事態宣言の解除後も、デパートに行く人は以前よりも少ない。


■都市という「袋」だけでは通用しなくなる
都市も一緒。東京という都市が「ブランド」となった。東京の学校、東京の会社、東京の店、東京のレストラン、東京の洋菓子ということで「ブランド」になった。しかしデパートの袋のように、「東京という袋」だけでは通用しなくなる。
本来、袋のなかに入っているヒト、モノ、コト、サービスが大切であるのは当たり前だが、これまで「東京という袋」というブランドに、外から来た人は酔いしれた。「東京」というだけで、レストランのコースは2割増、オフィスの家賃は3割増だったりした。それでも「東京という袋」を人々は持ちたがった。それがコロナ禍で変わっていく。


消費の消失こそがコロナ禍の「本質」。あったらいいな、してみたいなというようなモノ、コト、サービスという「消費」はなくなる。不要不急のモノ、コト、サービスはいらなくなる、絶対いるモノ、コト、サービスだけを買うようになる。偽物はいらない、本物が欲しい。現場、現物、現実が欲しい。コロナ禍は大断層で、コロナ禍の前と後は大きく変わる。市場から求められる「実」とは、「ホンモノと実需」である。それをコロナ禍のなかで追い求めていかねば、市場から必要とされなくなる。


「東京という袋」だけでは、これから通用しなくなる。袋のなかに入れるモノ、コト、サービスの「実」を考えていかねばならない。都市に住み、学び、働き、遊ぶという生活・行動様式の「実」とはなにかを考え、変えていくことが大切となる。それが、コロナ禍後を生きるうえでの必要十分条件である。

次回はホンモノの「モノづくり」を考えたい。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞COMEMO 7月10日掲載分〕

  • U−CoRo
  • 語りべシアター
  • 都市魅力研究室
  • OMS戯曲賞
Informational Magazine CEL

情報誌CEL

【特集】場づくりのその先へ −つながりから社会を変えていく

近年、まちづくりにおいて「場づくり」が注目されています。 その試みは、時に単なる...

バックナンバーを見る
  • 論文・レポート・キーワード検索
  • 書籍・出版
  • 都市魅力研究室
  • FACEBOOK

大阪ガスネットワーク(株)
CEL エネルギー・文化研究所

〒541-0046
大阪市中央区平野町4丁目1番2号

アクセス