コロナ禍の今の日本、なにをめざしているのだろうか。コロナ禍を収束させる・終わらせることが日本の「目的・目標」のようなものになっている。それは目的・目標といえるのだろうか。
一所懸命、頑張った。アプローチは正しかった。しかし結果がでなかった。うまくいかなかった。それは正しいのかどうか。結果がでなかったということは、「目的・目標」設定が正しくなかったということではないか。
一所懸命、頑張ったけれど、うまくいかなかった。そのやり方が正しかったかどうかの前に、目標設定の妥当性が問われるのが本来。その掲げた目的・目標は、果たして「適切」だったのだろうか?目的・目標設定が不適切だとしたら、その目的・目標達成に向けて努力したがうまくいかなければ、「正しい」と評価されない。
目的・目標設定が間違っていたら、それに取組んだ人全員が正しくなかったとみなされるのが世界。ところが日本はちがう。目標を掲げて取り組んだが、うまくいかなかった。それに関わった人全員が否定されるはずなのに、「次、頑張れ」と全員、生きのびる。ここが日本社会の甘いところ。
中国史や西洋史では、戦って敗れたら、全員外に出されたり殺される。そうしなければ、それにつづく社会を統制する組織は成り立たなくなると思われたから、そうなった。
池永部長のとき、こういう目標をたてたけど、結果がでなかった。”そりゃ池永さんやったからな…次の部長の時に頑張るわ”、それは違う。池永部長のときに頑張ってできなければ、あなたは池永部長とともに、消えなければならない。次の部長は次の体制で臨めばいい。そんな「あなた」は次の体制にはいらない…それはきついなあと思うが、それは世の習い。
本当ならばあなたが所属するチームが目標を達成することができなければ、チーム全員で責任をとらなければならない。しかし日本の組織はそうならない。目標未達でも、なぜか殆んどの人が残れる。だから緊張感がない。だからいい加減になる。
目的・目標を設定することが経営者の最大の仕事のひとつ。「企て」がまずければすべてダメになる。目的・目標の設定を間違え、目的・目標を実現できなければ、目的・目標の達成のために集められ担った組織は否定されるはず。
しかし日本は目的・目標設定がいい加減。目的・目標は組織の責任者と全員が合議してつくる。その時に、この目的・目標は間違っている、正しくないと意見具申しないといけないが、その場では言わない。目標が達成しようがしまいが、評価や給与に殆ど影響なく、やらなくても怒られない、飛ばされることもない。だからテキトーな目標となる。
こうして目的・目標をいい加減につくるようになった。目的・目標を軽く見る。だれも目的・目標を本気で実現しようとしないくなる。組織において良くない人、いうことをきかない人を左遷させるという「半沢直樹」の世界に「熱狂」するが、現実の社会はちがう。そうならないことが多い。そこに、日本社会の甘さがある。
かつての日本はそうではなかった。それが明治になってから、戦後になってから、「でたらめ」 になった。緊張感がなくなった。いい加減になった。
「上の人って、なんだかんだ、うまくたちまわって生き残れるんだ。御意・御意といって、いざとなったら、『わたしがやったんじゃない』といえば、生き残れるんだ」という空気になった。
もうひとつある。目標をたて、それに向かって、つきすすんでいくが、うまくいかなかったときのことを想定しないことが多い。だめになっても、「ごめんなさい」で、すまそうとする。「次、頑張ります」で許されようとする。企業人も、専門家も、みんな、エヘヘでおわる。
もともといっていたとおりにならなくても、目標が達成しなくても、責任を感じない、責任が問われない。
こうしてさらに目的・目標がいい加減になった。そして コロナ禍になった。コロナ禍の日本の今、みんなが一所懸命に努力すべき「目的」「目標」がズレている。あることはある。「コロナを何とかしたい」が目的・目標のようなものになっているが、それではコロナ禍後に失速してしまう。
コロナ禍のいま、社会で呟かれているのは、「あの日のようになれば…あの頃に戻れば…なんとかなる」である。たとえばコロナ禍で飲食店が「お客さまが昔みたいに戻ってくると、なんとかなる」といったりしているが、それは目的・目標ではない。「昔のように…」 は飲食店主が解決できる目的ではない。社会全体が変わっているときに、その店だけが前のようになるわけがない。コロナ禍で、みんな方向性を見失い、示せなくなっているのは、「新しい目的・目標」。
では目的・目標ってなにか。たとえばホンダを創業された本田 宗一郎氏だったら「とにかく早い車をつくれ」というような目標だったはず。その目標に向かい、ホンダ社員のものすごい努力とエネルギーが積み重なり、ジェット機までつくる世界企業になった。
GAFAも、そんなに大層な目標からはじまったのではないだろう。「面白いことをしよう」「楽しくやろう」「いつでもこんなふうに話せられないだろうか」といったような目標のもとに、みんながワイワイガヤガヤ、” それならこんなことできる” ”これもある” ”あれもある” ”おもしろい” などとアイデアがどんどんと湧いてきて、あっという間に世界企業となった。
というような、「専門家」の”学説”からすれば、「いい加減」と思えるような目的・目標だが、その会社のみんながワクワクするような目標からスタートして、いい回転をしだして、人を動かし、お金を動かせるようになると、その目標がとても立派に見えたり、後付解釈で、もてはやされたりする。
大切なことはなにか。その目的・目標が、人・社会・時代の「本質」をおさえているかどうかである。現代日本ではそんな軽い、簡単な、テキトーな目標では、人は動かない、恰好悪いと思いがち。しかし目標は崇高である必要は決してない。
”JAPAN
AS No1”
ともてはやされてから、神棚に飾っても恥ずかしくないように、アナリストやマスコミに笑われないような立派な目標をつくって、恰好をつけたがるようになった日本。しかし格好よく使った目的・目標の大半は本質を外している。だからうまくいかない。日本社会の閉塞を深めている主因のひとつ。
日本はこの半年、コロナ禍に右往左往して、社会に対して方向性が示されていない。マスク・PCR検査・医療崩壊対策・経済支援…といった対処療法ばかり。コロナ禍後の方向性が示せていないので、日本社会はどこに向かっていけばいいのかわからない。だから努力しようがない。
コロナ禍の今、クローズアップするべきは、「なにをめざすべきなのか」である。目的・目的設定が間違ったら、すべてが終わる。どんなに簡単な目的・目標でも、「本質」を踏まえて、誠実に取り組めば、大きなビジネスのフレームワークになりうる。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔日経新聞社COMEMO 9月9日掲載分〕