“営業は歩いてなんぼ、汗かいて日参してなんぼ、お客さまのところに徹底的に入り込むんや”と上司。“部長、もう、そんな時代ではないですよ”と部下。
上司と部下の会話。テレワーク時代、ガッツをしめす、ど根性、気合と根性の人間関係セールスだけでは通用しない。コロナ禍で、ついに「昭和の営業」は終焉するかもしれない。組織のフラット化の流れから、「部」を廃止しようとしたり、業務の分散化という理由で人的な組織体制でもあった「部」・「課」をなくそうとする動きがでてきている。
なかなか進まなかったテレワークが、コロナ禍が本格化して半年で、普通になった。世の中、オンラインでなければ、なんでオンラインではないの?といわれたりするようになった。これからはデジタルやで、ITにAIにビジネスモデルを掛けあわせてデジタルトランスフォーメーション(DX)や…、でもDXってなに?ようわからんけど、ともかくDXやで…。しかし「新型コロナウィルス感染報告」をはじめ日本社会の多くの現場は未だFAXのまま、もう半年も経ったのに、どないなってんねんやろ…
これからどないなるんやろ。情報技術だけがネットワークになるだけではない。社会も、都市・郊外も、組織もネットワーク化、分散化するのは必然。
情報のネットワーク化によって、組織はどうなるのだろうか?
組織はピラミッド構造からフラット化する。フラット化によって「部」が廃止されたり分散化されたり、組織階層は大幅に減っていく。当然部長・課長は減っていく。メンバーは「係」に配置され、みんなフラットとなり、組織内のメンバーとの「閉じた関係」だけではなく、外の人・組織との「開かれた関係」で運営さていく。
当然、これまで肥大化していた役員会も小さくなる。役員数も1割2割の減のレベルではなく、半減以下にもなる。役員を支えていた人たち、いつか部長に役員になれると思っていた人たちが夢見ていた「上」が限りなく減ることになる。
これから、偉くならない時代になる。
会社に入っても偉くならないで終る「出世レス」社会となる。
いつか課長、いつか部長、いつか役員…、出世がニンジンだった。
コロナ禍後、「出世レス」社会が襲いかかってくる。
必ず出世するからと、苦湯(にがゆ)を飲んで不条理にも耐えた。それが、出世できないとなったら、これまで20年も30年も我慢してきた人たちは、果たして我慢できるだろうか、モチベーションや生涯設計は保てるだろうか。いつか…になるという「いつか」がなくなったら、頑張れるのだろうか。
偉くなると給料があがるだろう…ということを前提に、家を建てたり、車を買ったり、ロ―ンを組んだりしてきた計画が狂う。これまで順調にいっていた人ほど、馬鹿らしくなる。胃潰瘍になるまで営業したり、半澤直樹みたいに俺は“のしあがってやる”といってきた人ほど、堪(こた)える。「出世レス」と言われたらやってられないとは思うが、じゃどこに行くのだと言われても、行くところが今のところ思いつかない。
戦後の日本の敗北感に近い空気になるかもしれない。戦後に戦前・戦中社会システムがリセットされ、そこそこ責任があった人が骨抜きにされたように、それまで威張っていた人が威張れなくなった…その空気感となるかもしれない。
そもそも役員や部長が偉いのは、その組織のなかでの自画自賛でしかない。組織の人が上役・上席の人を「上の人」といったりするが、それはその組織のなかでの「上」でしかない。外の人には関係ない。
コロナ禍後、出世レス社会になり、モチベーションがさがろうが、現在(いま)以外の選択がないと考える人が多いかもしれない。しかし現状維持は衰退を意味する。コロナ禍社会はリセット(大断層)―― 現状に甘んじるか、変革するか。コロナ禍中の現在、その選択に迫られている。
デジタル(DX)だけではない。コロナ禍によって、組織という概念は変わる。社会の様相・価値観が大きく変わろうとするなか、コロナ禍を生き抜く新たな組織のあり方、仕事のすすめ方とはなにか、「出世」とはちがった新たな価値を見出し、育てていく絶好のチャンスが到来したと考えられないだろうか。
(日経新聞社COMEMO 12月2日掲載分)
〔エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明〕