あのアマゾンは本屋で終わる可能性があったかもしれない。あのジャパネットたかたはカメラ屋で終わる可能性があったかもしれない。成功した企業や創業者の成功物語が後付けでいろいろ出てくるが、はじめから「力(チカラ)」があって、圧倒的な力(チカラ)がある人だからうまくいったというサクセスストーリーはそうそうない。
転んで藁をひらった。人に笑われるような藁をまずひらって、そこからはじめた。成功にたどりつくまで情熱を傾け、それに取り組んで、成功させた。そしてアマゾンに、ネットフリックスに、ジャパネットたかたに、ユニクロになった。どうしたらそんなにうまくいくのかを知りたいと思うようになるが、
まずは藁をひらう。そうしなければ、なにもはじまらない。共通項は、それ。
その会社が世界的企業になったり、日本一の企業になった姿を見て、あの人はすごいチカラがあったから、藁をひらって長者になったのだと捉えがちである。きっとすごい起業・経営法でうまくいったはずと、その秘訣を知りたがる。
しかしそんな単純な話では決してない。藁をひらって、一所懸命に自分の人生を切り拓こうとしたその人には、それぞれのチカラがある。100人いたら100通りのチカラがある。
たとえば知識が不足していればそれを持っている人を探して、自分にないチカラが必要ならばそのチカラをもった仲間を集めて、深めて広げて成功をめざした。
あの人はこの藁をひらったから成功した。だからといって成功した人と同じ藁をひらっても、失敗する人は失敗する。なぜか。その失敗した人には足りない何かがあったのだ。経営学では、成功している人や企業の研究が多いが、どうして失敗したかの研究も必要である。むしろなぜその人は成功したのかよりも、“なぜその人は失敗したのか”から、学ぶことは多い。私など失敗だらけだった。
ハッと驚くような想像力(イマジネーション)が湧き、その目から鱗(うろこ)が落ちるようなアイデアを煮詰めていくと、多くの金や多くの人を動かすような段階になる。想像力(イマジネーション)だけではまわらなくなる。そこで童話の桃太郎が犬と猿とキジを仲間にして鬼退治したように、必要なタイミングに必要なチカラを持つ人々を集めて、目標達成のための事業基盤をつくって物事を実現していかねばならない。
わらしべ長者は、長者になるために藁をひらったのではなく、“藁をひらったら長者になった”のだ。成功した成功できなかったの違いは、その人に
があるかどうかではないだろうか。
その人の「人間力」とはなにか?それは、その人が持っている卓越した技能かもしれないし、人を惹きつけるチカラかもしれない。人を説得するチカラかもしれないし、人が協力したくなるような人の魅力・引力かもしれない。それがその人が持っている人間としての実力。知識を持っているのも、コミュニケーションが上手だというのも、人としての人間力である。それぞれ独自の人間力を活かして成功したのだ。
藁をひらった人は藁で長者になったのではない。藁から人々と交流して次々と物々交換して財をなした。大切なのは藁をひらったあと、どうしたのかだ。
ここで登場するのは、桃太郎。
桃から生まれた桃太郎は、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられ、おばあちゃんにつくってもらった日本一のきび団子を持って、鬼ヶ島に向かう。その道中、まず犬に会ってきび団子を渡して仲間になってもらい、次に会った猿にきび団子を渡して仲間になってもらい、また会ったキジにもきび団子を渡して仲間になってもらい、桃太郎はチームを編成して鬼退治した。鬼退治という目標に向かって、桃太郎は必要なチカラを持った仲間を集めて、役割分担して実現させた。
いちばん最初に、「さてどんな料理をしようか」から考えるのではなく、まず現場・源流に行って、原料を見て、「こうあったらいいな」と想像を膨らませることから始める。そこで藁をひらう。
なにかしようと思って、起業塾などに通って、いろいろなノウハウを勉強する人が多い。しかし教える人も教わる人も、藁をひらっていない人が多い。こうしたら起業できるという方法論をいっぱい勉強するが、最初の策一歩を踏みださない。コロナ禍の現在、コロナ禍後に、なにをしたらうまくいくのか?あたるのか?どんなものだったら売れるのか?というようなことばかり考えているから、なにも進まない。
おそらくわらしべの若者は、最初はそれがうまくいくかどうかわかっていなかっただろうが、転んでつかんだ藁をひらった。そこから始めた。
なにをしたらうまくいくだろうかと考えたり、リスク分析や事業採算性ばかり試算したりと、一所懸命に勉強するが、机上では見えないことが多い。藁は現場にしか落ちていない。ある程度、考えたら動く。“やってみなはれ”だが、多くの人はなかなか動かない。
手にした藁で、次に進む。こんな藁じゃ絶対にうまくいくわけがないとか、藁以外にもっといいモノがあるはずだとかといって、つかんだ藁をはなしたり、藁から成功する方法やマニュアルを教えてくださいといっている限り、「わらしべ長者」にはなれない。
そうではない。つかんだ藁から始めよう。情熱を燃やして、前にすすんでいこう。そしてそのように藁をつかんで頑張ろうとする人をまわりの人は笑ってはいけない。
コロナ禍の現在、身の周りのコト・モノが一変しようとしている。これまでの社会システムがリセットされ、新たなモノ・コトを創造していけるチャンスの窓が開いた。
しかし変わることと変わらないことがある。たとえば”美味しいものを大切な人と食べたい”という想いは、いつまでも変わらない人としての本質であるが、それをどのように実現するのかという方法は変わりつづける。変わらぬ人としての本質を実現する方法論をどう想像し創造するのが、現代の「わらしべ長者」である。
コロナ禍一年目は大変だったが、何とか乗り切った。コロナ禍2年目の令和3年・2021年にはコロナ禍の本当の姿が浮きあがってくる。変わらないことと変わることがある。リスクもあるが、チャンスも多い。
コロナ禍の現在、「わらしべ長者×桃太郎」から学ぶことが多い。現代的視点で、自分ならどうすると、「わらしべ長者」と「桃太郎」を読まれたらどうだろうか。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔日経新聞社COMEMO 1月20日掲載分〕