1年と2年とでは、意味がちがう。コロナ禍となって実質1年が経つということは、「対前年比でどうか」というインデックスが登場してくること。「前年同月比」ととらえると、前年の2020年はコロナ禍に突入して“未曽有の出来事”であるといっていたけれど、2年目の2021年は“前年よりもよくなったのかよくなっていないのか”、“前年にどういうことをした結果、どうなったのかどうならなかったのか”が問題となる。
「1年だけ」と「2年つづく・2年連続」では意味がちがう。1年目から集中しないこと、密にならないようにといってきたが、2年つづくということは、そもそもをどうするのか、そもそもの形・スタイルがどうなのかを考えなければいけないということ。
“コロナ禍は大変、すごいことになっている…”から話は始まるが、これから先、どうするかを社外のメンバーで議論するときは、それはそうとと、「コロナ禍」のことをふっとばしてコロナ禍前を前提に計画を立てようとする。前提条件が根本的に変わっていることなど関係ない。現在がとてつもない危機的な状況になっていたとしても、現在を直視しない。前提を変えない。
会議にスマホが登場するようになった。議論をしていて分からない言葉がでてくると、“先生”と呼ばれる人たちが一斉にスマホをいじりだす。瞬時にWikipediaなどで見つけたワードを自らの“知見”として語りだす。すると別の先生が机の上のスマホ検索で見つけたワードで応酬する。専門家といわれる大学の先生やコンサルたちは、これが上手。ネット検索情報には嘘の情報もまぎれているのだが、そんなどネット情報が会議室に氾濫する。
スマホ検索は「選択」が鍵。いっぱい出てくる「答え」の数々のワードから、何を選択するかが問われる。文章を書く場合はじっくりと調べたらいいが、会議では瞬間的に会議の空気をつかみ、その会議に相応しいワードを選択して「自らの知見」にして、会議の主導権を握ろうとする。だから会議は空中戦となる。そして大半はズレる。
オンライン会議は、さらに変になっている。会議と併行してチャットにネット検索した情報が続々と並んでいく。原典を読まない「つまみ食い」だから、議論はまじわらない。オンライン会議では議論が深まらない広がらないというが、そうではない。コロナ禍前からスマホが会議を支配して機能不全をおこしていた。
スマホ“先生”がなにを言っているのか、よくわからない。
“先生”はネットを駆使して点と点をつなぐのがとても上手だが、横文字・カタカナを順々につなぐだけなので、なにをいっているのかわからない。点と点、ワードとワードの数珠つなぎで語る先生が増えた。
昔から横文字を挿入して難しそうに話す先生は多かったが、スマホ・ネット検索時代となり、語りの7〜8割が横文字という先生まででてきた。一般の人が知らないことを知っているのが「物知り」と呼ばれて「先生」「専門家」だと言われていたが、だれもがスマホ・ネットをつかえるようになって、情報収集レベルでは、先生も学生も一緒、社長も新入社員も同じになった。さらにコロナ禍でオンライン講演・講義が普通になって、”情報収集”においてはだれもが一緒になった。むしろ情報の“下剋上”すらおこっている。
だから日本語だとネット検索でだれもがたどり着いて「ネタばれ」するので、“先生”の権威が失われるからと、横文字・カタカナに走る。英語で書かれた「論文」「ニュース」をネタに語っていたが、それも自動翻訳によってだれもが「ネタ」にたどりつけるようになる。これからさらにAIの広がりで、物知りだけの先生・専門家では通用しなくなる。
点と点、キーワードとキーワード、カタカナとカタカナを日本語の助詞でつなぐので、まるで呪文・しりとりゲームのように聞こえる。なにをいっているのかわからないが、よくテレビに出てくる“有名な先生”が言っているので、ふんふんと聞く。意味がわからないが、周りの人もうなずいているから、自分も“なるほど”とうなずく。
本当はみんなわかっていない。“先生”といわれる人自身も、どこまでわかっているのかわからない。不文律がある。“先生”に質問してはいけない。専門外のことを質問されたら、キーワードの数珠つなぎの「先生」「専門家」は答えられない。狭い自分の専門ならば答えられるが、自分の専門以外は答えられない。だから質問してはいけない。コロナ禍でオンライン講義が増えて「学校」「講義」「先生」の存在価値が問われているが、本当はコロナ禍前から機能不全をおこしていたのだ。
「先生」「専門家」たちの書く文章も、よくわからない。日本語になっていない文章が多い。語りと横文字・カタカナのキーワードの数珠つなぎ。アート思考とかデザイン思考が流行りだからといって、マップを多用する“先生”“専門家”が増えた。カタカナ数珠つなぎと同じく、論理がわからない、構造化できていない、因果関係と相関関係がわからない。本当は〇とか△とかを線でつないでいるだけで、よくわからない。分からないけど、有名な専門家が描いたのだから、分かるといわないと恥ずかしいから、「分かりやすい絵」だといったりするが、本当は、みんなわかっていない。だからなにもうまれない。だからよくならない。だからなにも変わらない。
分からないことがあれば、スマホでネット検索すればなにかがでてくる。画面に出てくるいっぱいのワードから、ひとつを選ぶ。情報はいくらでも集まるから、いっぱいでてくる情報をどれだけ捨てるかが重要となった。これからなにを選択するかが人間からAIになる。選んだワードが正しいかどうか疑問に思わなくなり、そのまま信じるようになる。
みんな、考えなくなっている。自らの感じ方、見方、考える力が弱くなっている。だからみんな、同じことを語りだす。5G、DX、デジタル時代が進めば、さらにそうなる。検索履歴でその人の好みに編集された情報がでてくるので、余計そうなる。だからじっくりと読まなくても、なにが書いているのかが分かるようになる。読むから見るになる。長い文章は読まなくなり、書けなくなる。さらにセンテンスからワードに加速していく。どうしたらいいのか?
“なぜ”と訊ねる。
なぜそうなのか、なぜこうなったのか、なぜこれが増えているのかなどを問うこと、調べることで自らの考えが磨かれるのだが、日常生活から「なぜ」が減った。「ほんまか」が減った。「要はこうやな」が減った。だから会話がぎこちなくなり、空中戦となる。
「なぜ」「ほんまか」「要はこうやな」で、対話して、深く知ることで、自分の感じ方・見方・考え方を磨く。それが世の中を見る力、先を読む力を育てる。この力が弱くなった。だからみんな同じことをする。日本人は同調圧力に弱いといったりするが、それだけではない、その人の「観」がないのだ。
本を最初から最後まで読む。新聞を1面から最終面まで読む。好きな内容も苦手な内容まで読む。全体をつかむ、俯瞰する。それが市場観、生活観、社会観、大局観、未来観を育てる。
スマホを見てわかったふり知ったふりでは、「観」は育たない。何かに一所懸命となって取り組む。これ以上考えられないというくらい考えて考え抜いて、現場で仲間と喧々諤々話しあって、一気通貫、行動したという体験・経験が「観」を育てる。
コロナ禍で動けない現在だからこそ、「観」を育て、未来に備える。できないことはない。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔日経新聞社COMEMO 2月3日掲載分〕