鹿は神、神の使いだと日本ではいわれる。世界的観光地である奈良の春日大社や興福寺や東大寺や奈良公園や若草山や奈良県庁には、鹿がいたるところにいて、鹿に寄っていく外国人の姿をコロナ禍前によく見た。奈良の鹿は角が生えていようがいなくとも、人に近づき交流してくれる。餌をあげることすらできる。これがすごいことだと、外国人はいう。
1.折角の語源
鹿のイメージは、外国と日本では違う。外国での鹿のイメージは狂暴。哺乳類のなかでも、野生の鹿は狂暴で、熊や猪よりも恐れられたりする。鹿の最大の武器は角で、角で人を害したりもする。しかし奈良の鹿は温和しく人気がある。愛らしい顔で人に近づいてくる。外国人にはその姿が不思議で、とても喜ぶ。ただし日本でも野生の鹿は決して温和しいわけではない。
折角の語源である。ここで鹿が登場する。その狂暴だという鹿の角を、不思議な力を持って折ることができたという人がいた。鹿は角を折られると弱くなる。鹿の角を折るような人なのに、別のことでうまくいかないことがあったので、
「折角…なのに」が生れたというのがひとつの謂れ。
折角は表意文字であるので、なにかの姿をあらわしたものである。中国の清の時代に、みんなから尊敬されている人が頭巾の角を折った。その姿を見たまわりの人たちは、立派な人がわざわざ頭巾の角を折ったので、これにはきっと意味があると思い、まわりも真似をして頭巾の角を折った。わざわざ頭巾の角を折ったので、
角を折ることを「わざわざ」といったという謂れもある。
もっとあるようだが、折角という言葉ができた出自や背景が不明なのに、なぜか日本人はこの「折角」を多用するようになった。
「折角だから…」と言うのは、自らの「先行者の利益、年配者の利益、既得権益」などを死守しようとするときに、よく登場する。そういう目的で、折角…という日本人が多い。だめなものはだめだし、おもしろくないことはおもしろくないのに、自分・自社を守ろうとする。甘えの構造そのもの。他人に対してもいう。
「折角、ここまでやってきたのだから、もう少し頑張れよ」
「折角、頑張ってきたのだから、やめるなよ」
2.辛抱・我慢に対価を求める日本人
日本人は辛抱する・我慢する国民だといわれる。ここにも折角が出てくる。日本人は辛抱・我慢に対して、対価を求める。折角してきたのだからと言って、対価を求める。しかし対価を求める辛抱・我慢とは、手段である。手段である限り、結果が伴わないことがある。こういう言い方もする。
折角、下積みに耐えてきたのだから、部長にしてもらわないと困る。
と対価を求める辛抱・我慢を持ち出す。そんな折角は論理的ではない。折角もへったくれもない。
また市場が衰退して、残っているパイをみんなで分け合うような段階になったとき、その事業をやめるということは、「折角、これまで取り組んできたことが水の泡になるから、今のうちにとれるものはとろう」となる。しかしだめだったら、その事業をやめて、早目に他の事業に切り替えたらいいのだが、今していることを見限り・見切らない。だから気がつけば、取り残される。
“やってみなはれ”
という有名な言葉がある。“やってみてその結果を受けて、次をまた考えたらいい”というニュアンスであって、とりあえずやるというのではない。チャレンジする価値が思っていることを何度も何度も取り組む。今やっていることが駄目だと思ったら、折角もへったくれもなく、他のことをすればいい。
3.「仕方がない」と思えたら再チャレンジできる。
折角、洗濯物を干したのに、雨が降ってきた。
雨が降ることは自然現象で、仕方ない。
これである。折角と思うことを水の泡にする。だってそれは仕方ないじゃないか ― そう思えたら、再チャレンジできる。
会社もそう。今の会社にしがみつこう。この会社を辞めたら転職も起業もうまくいかないかもしれない。だから今の会社で辛抱・我慢しようという雰囲気 ― それも折角で、みんなで分かちあおうとする。
その「折角」が失われた10年が20年になり、30年になった日本社会を支配ししている。その折角を水の泡にする。水の泡とは、水の中に泡ができて、最後にパンと割れて無くなること。それを日本人は無駄に思う。しかし水の泡であり続けるものはあるだろうか。
(大阪ガス エネルギー文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 7月7日掲載分〕