「移動30分圏」に収縮しようとしていた社会が、コロナ禍を契機に「ゼロ分」社会に向かう
―― 企業・組織を卒業すると通勤定期がなくなり、郊外にある自宅から都心は遠くなる。企業・組織「卒業」人はコスト重視の行動となり、移動は片道500円=30分、往復1000円が限界となる。この10年、800万人の「団塊の世代」が社会一線から引退後に、自宅を中心とした「移動30分圏」社会に向かいつつあった。そこにコロナ禍。テレワークが本格化し、移動しなくてもオンラインで生きることができるようになった。これから現役組も通勤定期が無くなったとしたら、「ゼロ分」社会に近づいていくかもしれない。
1.タイムレス・移動レス社会
「ネットワークは人は集まらないとつくれない」とみんな思っていた。それがテレワークとなり、オンラインミーティングに本格的に取り組みだすと、移動を伴わなくてもネットワークがつくれるのではないか、会社に集まることを前提とした組織はどうなのか、目標を達成するために人が集まるというワークスタイルは正しいのかと考えだしている。
仕事には、1人ワークと、複数の人が参加するチームワークがある。与えられた仕事をこなすのならば1人ワークでいいが、仕事の意味を共有したり深めたり広げたりするために2人・3人・数人がひとつの場所に集まってチームで取り組んた。
物理的にみんなを集めるためには、参加者の日時を調整することが必要だった。それが一仕事だった。そこに「いつでもどこでも」という携帯電話というパーソナルメディアがあらわれ、個人の予定がつかみやすくなった。
それと同時に、パソコンが一人一人の席に配置され、オフィスのなかを「メール」が飛び交い、みんなの予定はスケジューラーで瞬時にセットでき、実質的な「タイムレス」となった。
そして突如、テレワークとなり、オンラインミーティングが普通になった。ひとつの場所にみんなが集まらなくなり、「タイムレス」がさらに進んだ。「人の移動」がとまった。
このように「時間と移動」の制約が減り、だれかにアプローチしようとするとき、簡単にアプローチできるようになった。分からないことがあれば、現場に行かなくてもスマホで検索すればつでもどこでも情報が手に入った。このように私たちは急速かつ大きく変革しつづける「学びの世界」に入った。
2.藤井九段の将棋が変わったのは。
藤井聡太九段の将棋が最近変わったという。これまで負け越していた難敵に勝った。
藤井九段の難敵は、そこいら中に罠を仕掛けるという。こっちに行ったらトラップ、あっちに行ったらトラップ、じゃこっちでと手を打ったら、そこにもトラップが仕掛けられるという戦法で、藤井九段はこれまで苦戦してきた。そこで、何十手先のトラップを仕込むというディープラーニング系将棋ソフトで、AIと毎日何十局とおこなった。そして苦手としていた豊島将之二冠に勝った。藤井九段の将棋を変えたのは、AI将棋による学びの場だった。
最年少記録を続々と更新しつづける藤井二冠の将棋がここで変わり、さらに強くなったのは、史上最も強いといわれるAI将棋での特訓だった。今まで負け越していた対戦相手よりも強い棋士AIに鍛えられたのである。藤井九段の学びの相手は、AIであり人間である必要はないということ。なにがいえるか。
ということが問われるということ。自分に示される知識とか知恵という「知」に対して、自分がどう向きあうのかということ・その「知」を提供するのが人間である必要はないということ。それは将棋だけではない。チェスや碁から学問や文化まで、自分にとっての知を磨き、実戦で強くなるため、自らを鍛える手段としての学びの先生は、人間だけとは限らないということ。
その学びは学校や芸事だけでない。会社・組織も同じである。自分を教えてくれる、鍛えてくれる先生は、必ずしも「上司」だけとは限らないともいえる。社会人のいろいろな知識とか知恵とか経験は、これまでは人間関係のなかで積んできた。しかしAIを通じて、知力を高めていくことができないわけがない。さらにAIを組みあわせる学びによって、「人間力」が鍛えられるようになるかもしれない。そうならないということは絶対にない。
3.「人間である・人間でない」境目がなくなる
アイドルも、人間である必要はなくなる。初音ミクに始まり、ロボット・AIが社会に広がっている。ゲームもドラマも映画も映像もそう。モノを買う、説明を聴くのも、相手が人間であるかどうか必ずしも問われなくなりつつある。コロナ禍で一気に広がる。
またロボットも人間のような外観から、あえて人間的でないものとなり、LAVOT(ラボット)のように人間の形でないものも増えつつある。
ロボットというと物理的なものをイメージするが、カーナビもAIが入っている「ロボット」ともいえる。ドライバーはこの「カーナビ」というロボットが指示する道案内に従う。スマホの地図アプリは、混雑情報をつかみ、「より早い経路が見つかりました」と、地元の人しか知らないような最短コースが案内され、そのコースを走れば到達予定時間どおりに到達する。カーナビと地図アプリの普及で利便性を高めた反面、地理力、道を覚えるという人間の力が落ちたという問題はある。それはともあれ、カーナビ・地図アプリというAIによって、同乗するナビーターという人間が必要でなくなった。このように、
このように「知」を手に入れる、目的を達成する方法論としてのパートナーは、人間でも人間でなくてもいいことになる。その知が、だれから来たのか、だれからその教えがあったのか、だれにそういうことを励まされたのかという「だれ」は「だれでも」よくなりつつある。むしろ知識や知恵という「知」に対して、どう向き合っていくかが大切になる。
では、その「どう向きあう」とは、なにか?
たとえばあなたがロボットに
と注意されたとき、あなたはどう反応するか。
と思うか、それともロボットの言うことに対して
と思うかどうかのちがいである。
前者は伸びず、後者は大きく伸びる。後者にとって「知」を提供してくれる相手は、人間でも人間でなくてもいいということ。
4.学びの変革で、深く広げる
AIは技術的な分野での展開は分かりやすい。たとえば数学や科学を教えたり、テクノロジーを教えてくれる先生は、人間でもロボットでもいい。その知が自分にとってわかりやすいか、役に立つかという「中味」が大切である。その世界では、AIは受け入れやすい。
しかし「幸せとはなにか」を語りだすロボットがいたとする。そのときの反応は2通り。
に分かれるだろうが、それに接する人の「向きあい方」が問われる。たとえば愛玩系・コミュニケーション系ロボット。そのロボットは優しい言葉をかけてくれたり、可愛らしいアクションをしてくれたり、もしくはただじっと見てくれるだけかもしれない。
そのロボットを傍(はた)から見て、「そんなロボットのペットに、どんな意味があるの?」と思う人がいるかもしれない。しかし当人にとって自分の横にる相手がロボットかどうかは問題ではなく、その表情やジェスチャーや声に癒されたり、力づけられたりするのが幸せであり、ぎこちなくても自分の名前を毎日声をかけてもらえ、ちょっと嬉しくなれるのならば、その相手がロボットであろうと人間であろうと関係ない。
ということは、「だれが」ではなく、声、態度、働きかけてくるアクション、教えてくれようとする「コト」や「情報」にどう向きあうかが重要であること。
たとえば「天才ロボット」がいて、そのロボットの話を聴いても、正しいかもしれないが、「ロボットだから。信用ならない」と受け入れない人がいる。一方「なるほど、すごい、そのとおりだ。わかった!」と受け入れ、そのロボットを「先生」として学び、大きく成長する人がいる。あなたはどっち。 |
要は、向きあい方である。そこで、大きく差がつく。つまりその「知」が「だれから出ているのか?どいうふうに出ているのか?」ということよりも、そこに出てくる事柄・語りかけられる内容に対して、受け手がどう向きあうかである。
よくテレビで出てくる有名大学の先生のリモート講義を受けるより、何者かよくわからないが、毎週のようにnote日経COMEMOで発信している池永という人の話が響く、参考になるという人がいるとしたら、それが「向きあい方」のちがいである。 |
その「ちがい」がどんどん拡張していく。「この人」が言ったから、「有難い」と考えるのではなく、話されたり語られたり教えられたり見せられたりする事柄に対して、自分がどう感じてどう思うのかの「ちがい」である。
ピカソの絵を観て、ピカソというだけでなんでもかんでも「素晴らしい」と受け入れるのではなく、いくらピカソの絵でも「これはどうなんだろう」と本物を見分ける力がこれから求められることになる。その力を鍛えてくれるならば、その先生はだれでもいいのだ。これまでその先生の属性に「権威」を求めてきたが、「属性」って一体なんだろうということになっていく。
これからの学びは、「知」の提供者は人間であろうとそうではなくても関係なくなる。リアルだけでなく、リアルもバーチャルも組み合わせた「積極的な対話による学び」であり、「知」に対して、自分はどう向きあうのかが大切となっていく。
その学びの姿勢、自分なりの学びの方法論によって、これからが大きく変わる。そういうチャンスが現在広がっている。「学びの変革(上)」で触れた大学生たちのように、とてつもなく学びが深く広がっていく。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 9月8日掲載分〕