「便乗」という漢字で、日本社会の実相と課題を考えつづけている。”他人の乗り物に、ついでに乗らせてもらう”という意味でよく使われているが、「便乗」の字義はあまり知られていない。便乗は、便に乗ると書く。乗るは判るが、便はよく分からない。たとえば航空機国際線成田発ニューヨークの便、郵便の便、便利の便、便宜の便、便乗の便…便に乗る。便に乗が加わると、「タダ乗り」というイメージになるのはなぜか。
1.便の奇妙な字義
便は、イ(ニンベン)に更と書く。では更とは、なにか。更とは、広げて伸ばすこと。たとえばぐちゃぐちゃになった新聞紙を広げて伸ばすこと、平らにすること、まっすぐにすること。この更にイを加えて「便」となる。よって便は
「人が姿勢を正して、すっと立っている」状態
となる。すっと自立・安定している様が「便」。無理なくドタバタせず、平然とすっと立って事を為す様が便。その「便」に利するから、便利となる。
すっと自立・伸びたその様は、自然体だから無理がない。一所懸命に努力してそれに乗りこむのではなく、安定した状態に澄ました顔ですっと乗っかること。それが便乗。日本社会には、こういう便乗をしている人が多い。
特段の努力をして入ったわけではない
「有名企業・派閥にいる」ということに、乗っかる。
便乗というのは、そういう人の姿をあらわす。しれっと、さくっと、特段汗もかかず、努力もしていない人が「いい状態」だと思うものにすっと乗っかる。これが便乗の字義。
2.便には、始まりと終わりがある
すっと自立・安定した人の姿=便をさらに考える。
すっと自立・安定しているということは
入口があり出口があり
すっと流れること。
につうじる。入口があって出口があって、その入口と出口がつながる。たとえば成田発ニューヨーク行きの国際線航空機便は
「始まり=出発地」と「終わり=到着地」
が決まっている。始まりと終わりがつながっているものが「便」。郵便は差出人が受取人に届けるものだから便。大便・小便は口から食べたものが下から出るから便。
つまり便は入口があって出口があること。スタート地点があってゴール地点があること。そこに入って出る。到達までのコースは直線でも曲線でもよくて、出発したら着くのが便。
飛行機やバスの便も郵便の便も大便・小便の便も同じ。
入口は出口につうじる。
ここから、「便乗」という言葉の真の意味が明らかになってくる。便に乗るというのは、入口でそれに乗れば出口に着くこと。出発地ですっと乗って到着地に着く。スタートからゴールまで、始めから完成まで、乗っかること。
乗っかれば、そこに着く。必ず到達するものに、すっと乗っかる。成田発ニューヨーク行きの便の飛行機に成田で乗りこめば、努力しなくてもニューヨークに連れていってくれる。それが便に乗る。便乗である。
3.なぜ電車は「便」といわないのか
バスや船や飛行機など乗り物の多くは「便」というが、電車は「便」といわないのはなぜか。
出発地と到着地が決まっていて、その間のルートは決まっていないのが便という。トラックで考えてみる。たとえば東京発札幌行きのトラック便は、東京が出発地であり札幌が到着地である。東京と札幌までの途中はどこを走ってもいい。到着の札幌に向け、新潟経由でも仙台経由でもいい。トラックは札幌に着くまでの途中で何回も荷物を降ろしたり載せたりすることもあるが、出発地と到着地が決まっているので「便」となる。
江戸時代の輸送便だった北前船も同じ。行きは大坂が出発地で蝦夷地が到着地だった。戻りは出発地が蝦夷地で大坂が到着地だった。出発地と到着地が決まっていて、その途中、様々な港に寄港して荷物を売ったり買ったりするという廻船ビジネスだった。北前船の便は出発地と到着地が決まっているが、その間はどこを航行してもよかった。
飛行機も同じである。成田空港発ニューデリー行きの航空機には直行便だけでなく、経由便・乗継便もある。どの便も出発する場所と到着する場所は同じだが、いろいろな航路があるから「便」である。
高速バスや夜行バスもそう。出発地と到着地が決まっている。新宿発京都行き夜行バス。京都に着くまで何回もバス停に停まったり、インターチェンジに停まったり、どこかの駅に寄ったりと、バスごとに運行コースはちがっているが、すべて目的地京都に着く。だから便である。
しかし電車は「便」といわない。
電車は船や飛行機やバスとちがって、「鉄路」でつながっている。鉄路がつながっている場合は、「便」ではなく「号」という。始点・終点は決まっているが、電車は鉄路を走る。電車は鉄路ではないところを走れない。先行車を追い抜いたり、後続車に追い抜かれることはない。同じルートを順番に走る。JR東海「のぞみ〇〇号」新大阪駅発東京駅行き、JR山陽・九州「さくら〇〇号」鹿児島中央駅発新大阪駅行きとなった。電車は便ではなく「号」と呼ばれる。
4.だから便乗する
目的地に到達するためには、出発しなければいけない。
出発はだれでもできるが、目的地・ゴールにたどり着けるのは、並大抵ではない。目的地・ゴールに到達できる人もいるが、到達できない人もいる。それが世の習い。
しかし船便・飛行機便は港・空港に行って乗れば、眠っていても目的地に着く。その便はだれかがつくった。しかしそのだれかがその航路を拓くまでの航行・航路は大変だった。大阪発蝦夷地行きの西廻り航路、神戸港を出て上海港に着く船便、東京発ニューヨーク行きの航空便のルートを確立した人がいたからこそ、それ以降その便に乗ったら着けるようになった。便乗する人はそれを拓いた人のことを知らない。
ところが船を渡され、「この船で神戸から上海に行きなさい」と言われても、自ら船を操縦して上海港にたどり着くことは殆どの人はできない。しかし「神戸発上海行」の船に乗れば、上海港に着く。無事着けるのだろうかと心配しなくても着く。その便に乗っかっていると着く。だから便乗。なにも努力しなくても意識しなくても乗っかったら、寝てても仕事をしていてもゲームをしていても、目的地に着く。しれっとさくっとすっと努力しなくても乗っかっているだけで、着くから便乗である。
有名な大企業に入ったら最後は社長か役員か部長になれるだろうと思うのが便乗。秘書に行ったら社長か役員か部長になれる、企画に行ったら社長か役員か部長になれる。こう思うのが便乗。
ここに入ればそこに到着できる
と思う便に乗っているのが便乗。
しかし中小企業・ベンチャー企業はそうではない。事業を始めても、成功というゴール・到着は保証されていない。中小企業・ベンチャーの経営者は便乗など思ったことはないだろう。毎日毎日努力して航路を拓いた人のように、自らで道を拓きつづけないといけないと頑張りつづける。そこには「便乗」という意識はない。
大手有名企業に入社して勤めていたら、自然に出世して、退職日には退職金をもらえる、早期退職せざるを得なくなったら、退職金を割り増ししてもらえるものと思っている。それが「便乗」である。
安心して「便」に乗っていると思うことが
便乗である。
本当は便乗するならば、相応の対価を払わないといけない。
そういうと、こういう人がいる。
「私はきちんと対価は払っている。納得できないことでも上司のいうことはなんでも聴いている。波長のあわない部下をもたされ目標達成に向けて頑張っている。理不尽なお客さまに怒鳴られても耐えている。」
それは対価ではない。本当の問題は、なにもせず、そこに新入社員として入社しただけで、到着地の社長・役員・部長になれる、必ず老後が心配しなくてすむ生涯資産、退職金がもらえるものと思い込んでいること、「便乗している」という意識である。
しかし世の中、便に乗っていたつもりだったが、目的地にたどり着けなくなろうとしている。戦後つづいてきた便乗社会が破綻しつつある。これからどうなっていく、こんなことをしていていいのか…。これからどうするのかは、次回「便乗日本⑤」最終回で考えたい。
エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明
〔note日経COMEMO 10月6日掲載分〕