(大阪ステーションシティ 時空(とき)の広場)
戦略をつくるだけでは、なにも実現しない。「企画」に携わることが多かった企業人として、これまで「戦略」という言葉を何百回、いや何千回も書いてきた。上も下も、「戦略」という言葉が好き。戦略と書いた資料が出来あがったら、実行もしていないのに、なんとなくできたような、なんとなくすごいというような達成感に浸ることがある。「戦略のつくり方」といったような本を何百冊も読んだ。今も意味が分からない。
企業・組織にとって戦略とはなにか。もともと戦略という言葉は軍事用語で英語strategyの日本語訳。語源は「だます」という意味のギリシア語「strategia」で、謀略といったりするように「略」には「はかる」「かすめとる」というニュアンスが含まれている。
企業人である私の考える戦略とは、戦いの前および戦いのなかで、「今、右に行くべきか左に行くべきか」を決めること。戦いのなかで、勝つために、なにをどうするのかを考え決めること。だから「戦略」を考えている段階は、戦っている状態である。だから戦場・戦局ごとに、今、どうするかを決めなければいけない。そしてなによりも戦いだしたら、必ずゴール(勝利・成功)にたどりつかないといけない。そのための戦略である。
現在、企業や組織では、そうなっていないことが多い。最初に戦略をつくって「ハイ、おしまい」が多い。遂行するのはあなたたち、うまくいかなかったら悪いのはあなたたち。それは戦略家ではない。戦略家は勝ってこそ、実現してこそ戦略家=経営者といえる。
1.戦略が好きな日本
私が考える戦略とは、「どこの土俵で、どんな体制で、どのようなスピードで、どう勝つのか」という設計図をたて、目標(ゴール)にたどりつくプロセス全体である。自分たちが勝てる場所を見つけて、他との違いを明確にして、勝てる体制をつくりあげ、戦力を集中的に投入して勝つためのプロセス全体である。
だから戦略は1回つくって、おしまいではない。作戦をたて、最終ゴール(勝つこと)に必ず到達しないといけない。たどりつかないと負け。最終ゴールにたどりつくまでのプロセスで、具体の現場は次々と局面が変わる。局面局面ごとに情勢をつかみ、分析して戦術を考え、問題を解決して、次に進む。するとまた問題が発生する。そこでその問題を解決して、次に進む。
このように現場では、いっぱいの「どうしたらいい?」が発生し、その問題ごとに「こうする」と答えを出して、解決しつづけないと、ゴールにはたどりつけない。とはいうものの、これまでの日本の時間はゆったりと流れていた。日本の人口も消費人口も増えて、市場は大きかった。かつ市場・社会構造はシンプルだった。大変だけど、気合と根性で頑張ればなんとかなった。
それが、そうではなくなった。今までと、がらっと変わっていった。想定外の出来事が次々と起こる。ネット、スマホ、AI、DX、GAFA、Uber、Airbnb…業界・市場の常識を覆すような技術、その技術を活用したモノ・コト・サービス・会社が次々とあらわれる。今までの常識やルールが突然通用しなくなることが続々とおこる。そこに「VUCA(※)の時代」といい出した(これももともと軍事用語)。
技術の進歩によって、社会・市場が複雑さを増し、将来の変化が予測できない。どうしたらいいのかと考えあぐね、失われた20年だ、30年だ…と思考停止していた日本は突然コロナ禍に突入した。
2.先を見ようとしない日本
空前の世界的パンデミックだが、なんとかなる。コロナ禍が通り過ぎたら、コロナ禍前に戻るはずだ。コロナ禍は「非日常」だから、「緊急避難」的に行動する。コロナ禍の最中は我慢する。耐えていたら、必ずおさまる。…と思おうとして、日本は時計をとめた。しかし確実に市場構造・需要構造はコロナ禍で変わりつつある。
コロナ禍はいつまでつづくのだろう
― と考えているうちに、半年が経ち1年が経ち1年半が経った。日本は、当面の我慢と考えていたから、コロナ禍に入って考えた「戦略」を繰り返す。しかし当面の我慢が1年半もつづき「もう限界」と思っているところで、新規感染者数が減少してきたから、ちょっと緩和してもいいのではと対策を緩める。しかしこれからどうなるのだろうか、本当にこれでいいのだろうかとも思うから、迷っている。
日本はコロナ禍を対処療法中心に乗り切ろうとした。日本は目に見えるものばかりを対策して、目に見えないものを見ようとしない。先が見えないのではなく、先を見ないようにしてきた。だから日本はコロナ禍後の社会構造変化の本質をつかめていない。
コロナ禍のなか時計がとまっている日本で、毎日のように言葉があふれている。しかしその言葉に力がない。語りが人に伝わらない、人に響かない。「これもある、あれもある」ではなく、「こうする」「こうしよう」と決める人が出てこないと、前に進んでいけない。いくら戦略が正しくても、それを受け入れる環境が整っていなかったり主体の腰が弱かったら、事柄を変えたりイノベーションをおこしたりすることはできない。やはりトップである。「こうする」と決めるトップが必要である。そのトップに、「信念」があるかどうかである。
「これからこうなる」「これでいこう」
と断定的に語る人がでてこないといけない。
たとえば乙巳(いつし)の変からはじまる大化の改新や幕末のペリー来航からはじまる尊皇攘夷から倒幕につながった改革は、それが必要だったのか、はっきりしない。おそらく当時の人々にトップが訴えたのは、単純な言葉だったのではないか。きわめてシンプルで「このままではいけない」という危機感をベースとした「信念」の語りから、始まったのではないか。戦略家の信念によって動きだしたから、その「信念」にみんなが共感して、その人についていったことで、目標が成し遂げられたのではないか。 |
3.「信念」が日本の時計を動かす
世の中を変えうる「信念」とはなにか。実は「信念」には、根拠がない。「信念」には、根拠・裏付けといった最近の流行の言葉「エビデンス」はない。根拠があれば「確信」になるが、「信念」は危機感をベースとした想いであり、他者を動かす原動力そのものである。
だから信念は「欲求」ではない。お金が欲しいとか名誉を手に入れたいという「私心」ではない。こうしなければならない、こうしたいという「自己表現」として、それを達成したいという想いである。この信念をもった語り・行動こそが他者を動かす。
応仁の乱後100年間つづいた戦国時代の日本を実質的に統合した織田信長に「信念」があったかどうかは分からない。しかし当時の日本人において、信長は圧倒的に革新的であった。信長以降、舶来物に対する興味・社会システムへの活用戦略をだれも踏襲していない。信長だけが突出して、先進的で、しかも異端だった。 信長は安土城を築いた。決して豊かな場所とはいえない山に建てた。信長に何かのバックボーンがあったかというと、それも疑問。しかも戦に強かったわけではない。現に石山合戦は11年もかけているが、軍事的には勝てていない。朝廷が調停して収束した。
しかしみんな、信長についていった。なぜか?信長に「信念」があったのではないだろう。「日本を統一しないといけない」という信長の信念が人々を信長の自己実現に向けたプロセスに巻き込んだのではないか。おそらく信長には、私心がなかった。だから信長は本能寺の変で殺されたが、織田家は江戸時代の大名として残り、現代にまでつづいている。信長側近の森蘭丸が松坂屋をつくり、今も残っている。 |
これではいけない。こうしないといけない。
危機感が信念をうむ。信念の人の語りと行動は断定的。疑問形を使わない。
こういうことではないでしょうか?
これでは、人はついてこない。信念の人は、そうは言わない。信念の人はこういう
これはこうだ。こうなる。
なぜそうなのか?エビデンスは?といわれても、信念の人には、確たる根拠がない。「説明責任」だと言われても、科学的・現実的な論拠を語るのではなく
私はこう思う。これに向かって行こう。
と断定する。その断定が他者を動かす。そうするのが自分の使命だと考える。そのことに、私心がない。公平無私で、夢を語る、その信念の人に
みんなは、ついていく
この人は最後まで逃げないだろう、この人は必ずそこに連れていってくれるだろう。そういう信念が必要である。この社会は、この産業は、この会社は、この都市・地域は、日本はこうあるべきだ、こうしなければだめになるという危機感に裏打ちされた「信念」がなければ、人は動かない、進まない、変わらない。コロナ禍で止まっている日本の時計を動かすのは、そんな信念の人。政治だけではなく、企業も、組織も、生活にも、未来への「信念」の人が求められる。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 10月27日掲載分〕