日本はいつそれを失ったのか ―― ハロウィーンの夜に起きた東京の京王線での乗客殺傷事件を契機とした模倣事件が発生するなか、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年公開)を久しぶりに観た。舞台は戦後復興に突き進む日本。尾道に住む老夫婦が東京に住む子供たちを訪ねに上京した時の家族の人間模様を、老いた両親の目線で切々と描かれている。映画が公開され60年経つ2012年に世界の映画監督が選ぶ史上最高の映画に選ばれるなど、親子のつながりと崩壊そして喪失という普遍的な物語が、現在も評価されている。
この映画が公開された当時の日本は戦後復興をめざして、農業・漁業・地方から東京・大阪という大都市への民族大移動による急激な都市化、親子の世代間の価値観の著しい変化、家族のカタチの変化の始まりを観た。何百年もつづいてきた農耕をベースとした日本文化を捨て去り都市生活文化への転換をめざそうとしたものの、新たな日本文化を再構築・確立・成熟できないまま、放浪しつづける現代日本の始まりを「東京物語」に観た。70年後の現代日本の始まりをこの映画に観た。
1.よくわからない「コミュニティ」が席巻
地域コミュニティとはなにか。分かるようで分からない言葉が使われだしたのは1969年頃。戦前の地域の記憶を引きずる自治会や町内会のリニューアル版として「コミュニティ」が登場した。以来、まちづくりと称する活動のなかで、「コミュニティセンター」「コミュニティバス」「コミュニティビジネス」「コミュニティデザイン」など、なんでもかんでも「コミュニティ」の冠をつけた。コロナ禍においてはコロナ禍後はローカルの時代だから、コミュニティを再構築して活性化しないといけないといったりしているが、そもそも「コミュニティ」とはなにか。「コミュニティ」の意味を理解している人は、どれだけいるだろうか。
その「コミュニティとはなにか」を考えさせられたシーンがある。2018年7月、西日本豪雨で岡山県倉敷市真備町で、川が氾濫して冠水した。逃げおくれたおばあさんを、地元の人たちがボートに乗って、「おばあちゃん、大丈夫か?」と助けに行く。平時は声をかけあうことはないけれど、危機だから声をかけ、助けに行くという地域の人々の姿に、「コミュニティ」のカタチを観た。 |
コミュニティ(community)のcommunとは、共産主義(communism)のcommun(共産)。互助とか共同負担であり、自分のことを他人にやってもらうということを意味する。一方、自分のことは自分がやるというのが「自由主義」。おばあさんが水害で溺れているのは、そのおばあさんの家の作り方が悪いからそうなったと考えるのが「自由主義・自由競争」の考えで、溺れているおばあさんをみて、
「お互いさまだから助ける」というのが
コミュニティ
自分が困ったら助けてもらうという「予約」のもとに、他人が困っている時は助けるというのが「コミュニティ」。このコミュニティがボランティアという言葉とともに阪神淡路大震災・東日本大震災など大災害が発生して以来、浮上してきた。しかしこの美談と言われる救出劇の背景に、日本が失ったとても大切なことを感じる
2.SNSをコミュニティととりちがえる日本
ソサエティ(Society)とコミュニティ(community)を混同する人が多い。Societyとは社会で、話し合ったり声をかけあったりする場である。では会社はソサエティかコミュニティか。会社は、ビジョン・目標達成に向けて社員一人一人の役割・機能・分限が決まっているので、会社はソサエティであってコミュニティではない。しかしなんでもかんでも「コミュニティ」といいだすようになった。
もっと混同されているのがインターネット。SNSでつながった場をコミュニティと考える人がいるが、SNSでつながる関係性は、コミュニティではなくソサエティそのものである。現にSNSの「S」はソーシャル=社会だから、SNSはソーシャル・ネットワークであり、コミュニティ・ネットワークではない。コミュニティとは、ある条件のもとで自分のことを他人にしてもらうこと、他人のことを自分がすることを意味するということを理解せずに、SNSにコミュニティの関係性を求めるので、問題がおきる。
コミュニティには必ず相手がいて、それぞれに役割分担がある。相手に、なにかの作業を求める。自分がやるべき役務は、自分のことだけするのではなく、場合によればだれかを手伝うというのがコミュニティである。
3.権利と負担のアンバランス
だから倉敷市真備町で、豪雨で溺れているおばあさんを地域の人がボートで助けに行くというのは、地域コミュニティである。独居のおじいさん・おばあさんに息子・娘がいるとしたら、本来息子・娘が助けるべきである。しかし息子・娘がその地域に住んでいないからといって、近所の人が助けに行くというのは、「無責任な負担」といえる。
「権利と負担」の関係がアンバランスとなっている。おじいさん・おばあさんが亡くなられたら、遺産やなんやらは遠隔地に住む息子・娘たちが相続するが、おじいさん・おばあさんに危機があれば地域の人々が負担するという
アンバランスは世界で通用しない。
そしてコロナ禍。感染リスクのために会えないということを理由に、そういうことがさらに増長している。地域に戻らず、遠隔地から「ああして」「こうして」という要求が地域に飛んでくる。どうなっているのか。
4.日本が失した「お互いさま」
日本のまちで、こんな風景も増えた。
だれかが道で倒れていても、素通りする。どうしたの?大丈夫とも声をかけない。まちのなかはソサエティであり、それぞれに関係性がなければ、なにもしない。むしろ声をかけて、なにかがあったら怖いので、あえて近づかないようにする。
世界はどうか。たとえば中国。中国では、住んでいる街区のなかでの関係性は深い。だれかが倒れると、周りの人が集まり、それぞれがいろいろなカタチで助ける。また食事をしようとだれかがいったら、集まってみんなで食べる。そして食事をしようと声をかけた人が、食事会の費用の全額を負担する。なぜか。
「お互いさま」だから。
また次に食事をしようといった人が次の食事会の費用を全額負担する。日本人はそれに驚くが、中国では自然。コミュニティは「互助」。互助に対する負担は、お互いが負担する「互負担」である。そのたびに割り勘するのではなく、声をかけた人が全額負担する。
お祝いも、みんなで祝う。しかもそのお祝い会には、だれか分からない人も含めていっぱい集まる。そのかわり、声をかけてくれた人になにかがあると、みんなが駆けつける。その人が亡くなったら、みんながお葬式に来てくれて、悲しみ、見送ってくれる。それが「コミュニティ」のカタチ。
日本にも、かつてそれはあった。 |
日本の高度成長期で、それはさらに加速した。親たちは貧しかった戦前派で土地に縛られていたが、自分たちは自由となり、大学に行けて自由恋愛もできた。親世代と価値観が著しく変わり、一緒に生活できなくなった。そして核家族となり、高齢化・少子化となり、単身者が加速していった。
そしてコロナ禍。テレワークとなり、戦後から流れている「社会的価値観」に疑問を感じだしている。テレワークとなった家で家族といる「濃厚な時間」が増え、「親子とは、家族とは、地域とはなにか」を問い直し、大切なことを取り戻すチャンスを得た。しかしこれまで私たちは変えてはいけないことまで変えてしまっている。「変えてはいけない事柄の本質や人の本相」を取り戻すチャンスを選択できるかどうかが現在、問われている。
「サービスは受けたいが負担したくない、負担しないが受益はしたい」
という考え方では世界は通用しない。「利用するなら負担する」のが世の理。
日本のぬるさは、そこにある。「自分はなにもしないが、利用できるものは利用する。利用できるものをもっと欲しい。それを負担しているのはだれかは考えない。これでは事柄は進まない。負担と受益の関係がバランスしていない。
コロナ禍後の社会は都市中心の社会から「都市も郊外も地方も」の社会となる可能性がある。「ローカル」の時代となるともいえる。だから「コミュニティの時代」だと短絡的に考える人がいるが、私たちはその「コミュニティを動かす核」を失っている。
大切なのは、受益と費用のバランスである。助け合う関係であり、「お互いさま」の関係である。その関係がアンバランスとなっている。コロナ禍で進んでいこうとする社会的意識の変化とともに、受益と費用をバランスさせた関係性を再構築しないと、コロナ禍後の2020年代後半が「心」と「和」をめざしていく時代には進んでいけない。コロナ禍のなか、すべきことがある。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 11月10日掲載分〕