岐路である。現下のコロナ禍での仕事や生活を一時的のものと捉えるのか恒常的なものと捉えるのか。そのどっち?この変化を不可逆であると考えて動いているのか動いていないのか。そのどっち?「オンライン・DXは目的ではなく、手段である」と口では言うが、IoT・DXを「技術課題」としか捉えていない人・企業と、そうでない人・企業。そのどっち。それらがつくりだす世界観は人類史上初のもので、その本質を踏まえて動き出した人・企業、今だけのことと考えて今までどおり動いている人・企業。そのどっち?
1.それは平成時代から始まっていた
画像・音声のスイッチひとつで、「移動距離性」が消えて、「LIVE性」「世界同時性」が達成される時代となった。それを活かしている人・企業と活かしていない人・企業とでは、猛烈な差が出ている。それに多くの人は気づいていない。
コロナ禍のオンライン時代での企業・大学の格差が広がる。オンライン講義を対面集合講義の非常時の代替と捉え、「オンライン講義は悪」だと考える大学が多く、オンライン時代の大学生は「オンライン・SNS」を体得・駆使して、学ぶ力を格段とレベルアップしている。それに多くの人は気づいていない。それは、本当は、コロナ禍ではじまった訳ではない。
平成の時代から、それは見えていた。たとえばインターネット通販を始めた食品メーカーと、商店街の店頭で小売をしている老舗店の業績は大きく差がついている。当初、インターネット通販を始めようとする食品メーカーは、まわりから
「そんなことに取り組んで、大丈夫なの?」
「お金、払ってもらえるの?」
と言われていたが、今ではそんな話を聴かない。商品を注文したが届かないとか、商品を送ったが代金を払ってもらえないといった話は殆んど聴かなくなった。それはネット通販が
アカウントとセットになっている
からであり、代金の支払いの担保がない人には売らない。ネット通販の肝は「アカウント管理」で、商品を送って代金が入ってこないということはない。「お金の払い方を変えること」がビジネスモデル(=儲ける仕組み)の転換の本質である。そういう認識をしていないビジネスマンが多い。
たしかに平成初めのネット通販が始まった頃は、代金が入ってこないというトラブルがあることはあった。だから
「ネット通販はダメだ」
と判断して、時代の流れを理解することなく導入しなかった企業が多かった。現在、若い人にしたら「ネット通販は当り前」という世界観で社会システムとして確立しているが、多くの企業はオンラインショッピングへの転換に出遅れた。コロナ禍の今でも、請求書の郵送やFAXのままの企業が多い。
かつては、自分がそこに行かねば、なにかが得られなかった。それが、実際にそこに行かなくても、これまでと比較とならないレベルのなにかを手にすることができる。行かなくても
行動するという「体験」と 行動によって新たな知見や技術・スキルを 身につけるという「経験」
を積むことができ、それらを通じて培われる生活観とか人生観とか世界観といった観念を変えていくことになる。 それも、意思・意欲があれば、だれもが、スピーディに、ダイナミックになにかを身につけたり、なにかを実現できたり、なにかを変えることができるようになった。時代速度・時代深度はとてつもなく進む。だれもが経験してこなかった時代と、オレのときはこうだった、私のときはこうしたという先輩風・上司風を吹かせられない時代が、同時進行している。 |
実際にそこに行ってビジネスを立ちあげることと、実際にそこに行かずにビジネスを立ちあげることと、その質と強さは違うのではないか。 メールや電話・オンラインのやりとりだけで仕事を進めてきた相手と初めて面談したとき、相手の姿や周りの環境から、これまでになかった観点やアイディアが浮かびあがり、面談する前に考えていた提案がさらに広がったという経験がある。 ネット・スマホ・SNSで発信される「その人の話や画像」などの情報と、直接その人とお会いして受け取る情報とでは、大きく異なるということを経験がある。 人と人、男と女の出会いによる関係性構築の流れを振り返ったら、直接会って得た情報がすべてを支配することは自明の理である。だからといって、すべてのプロセスで面対しなければいけないというのではない。オンラインと「新たなリアル」を組合わせた新たなスタイルを、私たちはこれからつくっていかねばならない。オンラインかリアルではない、在宅か出社の二者択一ではない。 |
2.情報は「取捨選択」しない時代
情報は氾濫している。情報の量が「情報空間」に、毎分毎秒、世界各地からアップされつづけている。LIVEだけでなく、後で視聴することも読むこともできる。これら天文学的な情報は、どこに保存されるのだろうか。これら情報を収納するサーバーの容量は大丈夫だろうか。いつか追いつかなくなる時代がくるのではないかと思っていたが、そうならなかった。情報技術のすさまじさを感じる。
この爆増する情報を前に、昭和世代はこう考える。
「情報をどう取捨選択したら、いいのだろうか?」「どのように情報を処理したら、いいのだろうか?」と。それはちがう。現在は取捨選択などできない。そう考えること自体が
昭和の発想である
なぜその発想が「昭和なのか」というと、そもそも
なぜ情報を取捨選択しないといけないのか?
なぜ情報を整理しないといけないのか?
という問いに答えられない。限定的な範囲で情報を集める状況・案件ならば「取捨選択」は可能だが、情報を無尽蔵に集めることができる情報爆発時代においては、時間をかけて「取捨選択」することなど物理的にできない。では、どうしたらいいのか。
自分のフィーリングで
情報を受けとめる
情報爆発時代の情報との向きあい方は、これである。
たとえばあなたが理容店・美容店で髪の毛を切ってもらっているときに、店内で流れるBGMを取捨選択して、この曲は聴く・この曲は聞き流すということをしているか?理容店・美容店を出るとき、あの曲が良かったなと総括しているか?髪の毛をととのえてもらっているときに、素敵だなもう一度聴きたいなとか、あれ誰の歌だろうかと気になる音楽に遭遇することがある。これである。百貨店やショッピングセンターやホテルやレストラン・パチンコ屋にいるときも、同じ。ということは
毎分500時間の動画がアップロードされるYouTubeの全部を視聴することはできない。そんな情報氾濫の時代、情報の束から取捨選択して、「正しい情報」をつかむという昭和の発想は、とうに破綻している。だから現在の情報との向き合い方は
継続的な情報の流れのなか、
フィーリングで心に留まったものを
つかむこと
である。これはその一例である。このようにこれまでの経営・マーケティング・商品開発の「手法」の多くが、通用しなくなることを意味する。
3.現実と迷信の時代
正しい情報はひとつしかない。世界にたったひとつしかない。では、正しい情報とは、なにか。
それは、「現実」である
正しい情報とは自分が目の前で見たり聴いたり経験した「現実」を
自分がどう思うか、どう考えるのか
である。世界中から24時間発信されている情報の束から、取捨選択して正しい答えを導くという「情報処理の公式」は正しいように思えるが、実際はできない、ありえない。とすると
アート思考だとか感性マーケティングといったものが新たな手法として話題になっているのは、この文脈である。このことに、情報発信者やメディア業界の人たちは、とっくの昔に気がついていた。だから
見栄えがいい
聴こえがいい
形に情報を編集して、発信するようになった。その情報が「正しいのか正しくないのか」は関係なくなった。正しいと教えられた事柄が簡単にひっくりかえった。私たちはそんな経験を何度もしている。たとえば
日本が太平洋戦争に負けた1945年の8月から1年間は、まさにそういう世界だった。それまでの世界観が、一瞬でひっくり返った。昨日まで軍国主義で勇ましいことを言っていた先生が、突然、「これからは自由だ、民主主義だ、平和だ」といいだした。正しいというものが、いかに淡いもの、移ろいやすいものだということを知った。 |
「現実」である
そして「これが正しい」ということは決めるのは
自分の目の前で起こる現実と
自分の主観
もっというと
「これでいいのだ」という信念
である。それ以外は簡単にひっくりかえる。平成の初めから、そんな世界観に徐々に変わりはじめていたが、コロナ禍を契機に、その世界観へと一気に移行する。Z世代は完全にそういう世界観、時代観を生きる。このZ世代の価値観が全世代に影響を与えていく。
進歩しつづける技術と社会をどうつなぐのか。
これからも情報技術は大きく進歩していく。情報技術は「時間と空間の構造」を変える。自分を中心とした「移動距離性」に縛られた世界観から、人類史上初の世界観に入ろうとしている。この世界観を新たな座標軸に、どう学び、どう働き、どう暮らし、どう楽しみ、どう生きるかの再構築が求められている。待ったなしである。もうええ加減、変わらないといけない。昭和はとっくの昔に終わっている。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永
寛明)
〔note日経COMEMO 1月14日掲載分〕