「初めまして」「この人、こんな感じの人だったんだ」「こんなに背の高い人だったんだ」「こんな雰囲気の人だったんだ」・・・テレワークが普通となった。オンラインミーティングが普通となった。そんななかでリアル会議が開催できたら、うきうきして、いろいろ発見がある。
それまで「リアルかバーチャル」といっていたが、「バーチャルがあってリアルがある」と、コロナ禍2年でリアルとバーチャルの順番が変わった。つづいてメタバース。どうなる、これから。
1.夢か現(うつつ)か
夢か現か。夢か現か幻か。夢か誠か 。胡蝶之夢。ボクたちは何千年も前から、ずっとそういう世界観を生きている。だから「バーチャルかリアル」は、今にはじまったわけではない。1200年前の日本の歌人がこう歌っている。
「うたたねに恋しき人をみてしより 夢てふものはたのみそめてき」 平安時代の小野小町。「うたたねの夢のなかで恋しいあの人とお会いして以来、夢というものを頼みにするようになりました」。恋心と会えない切なさを歌いあげた。夢と現の間(はざま)の心の揺れを的確に捉えている。 |
中国の古典「易経」に、「陰陽融合」という言葉がでてくる。人類は古代よりリアルとバーチャルの世界を行ったり来たり、AとBをバランスさせて暮らしてきた。AとBを融合した世界を生きてきた。夢か現ではなく、夢も現もの世界を生きてきた。
2.メタバースの世界
コロナ禍を契機に本格化したオンライン・リモート技術を活用したビジネスモデルの進展は、「時間と場所」の構造・関係性を大きく変えつつある。そしてコロナ禍が3年目に入って、メタバースが大きく動きだした。メタバースとは「メタ=超越」と「ユニバース=宇宙」の造語。リアル空間とはちがう仮想空間のなかで社会・生活活動ができる技術である。その技術が生みだすのは
ユニバースに対するメタバース
メタ(形而上)の世界
メタを表す「形而上」という漢字は、古代中国の易経にも出てくる。形而上とは、形がなく、感覚ではその存在を知ることができないもの。時間・空間を超越した抽象的・普遍的・理念的なもの。人類は2000年以上、メタの世界にも生きる。
リアルの会社、工場、ショッピング、コンサート、学校とは別の仮想空間のなかで、自分の「分身」が働いたり、買ったり、楽しんだり、散歩したり、学んだりできる。好きなアニメのキャラクターになったり、美男美女の主人公となったり、100mを7秒で走ったり、3mの跳躍ができたり、博覧強記な人になったり、リアルのボクとはちがう「超人」として、メタバース世界の住人になる。
どんな世界になるのだろうか。メタバースという新たな言葉が使われているが、これまで言ってきたアバター社会とどうちがうのか。
現在進行形のリモート社会において、夫婦・親子・家族・恋人など最低限のリアリティ補償機能が無くなれば、技術的にはメタバースの世界になるかもしれない。家族や恋人をテンポラリーにレンタルすることで自我や関係を補償することが自然だという価値観が広がれば、メタバースの社会コストは下がり普及していくかもしれない。 |
ただ一部メタバース化した世界は広がる。ではその世界の住民たちの着地点はどこか。バーチャルの世界でアバターのボクたちが自由自在に活動できるが、アバターだけで自己完結するのではなく、バーチャルな世界とリアルな世界の間を行ったり来たりすることとなる。そのデュアルな世界のなかでは
自我のリアリティ
肉体上のリアリティ
が問われる。このバーチャル空間はよりリアリティに近づき社会実装化されていくが、このバーチャル空間でもリアル空間でも「個」のあり方が問われる。そんなデュアルな空間を生きるボクたちの「個」は、どうなっていくのだろうか。
3.個の時代における大切なこと
メタバース化する世界のなかで、ボクという「個」はどうなっていくだろうか。ヒトは一人では生きていけない。「個」一人だけだと、「相互扶助」の仕組みから外れる。だからヒトは個だけでない方法はないかと探しつづける。ボクという個を守りながら、個ではないなんらかの帰属とか属性を持ち、ボクという個と相互関係をつくろうとする。
このボクという個が「個だけではない」状態にもなるうえで必要なことがある。それは
引きつけあう力
である。個と個を引きつけあう力である。それは巷間言われる「つながる」というような単純な関係性ではなく、磁石のように「引きつけあう」関係性である。たんにつながっているだけならば、個は個のままであり、ひもがつながっているだけの関係である。
「ひもがついているだけ」というのは、束縛された状態ともいえる。たとえばその家に生まれたというだけで、その家に結びつけられているとしたら、家という属性に単につながっているだけで、個は個のまま。家族のなかの個人個人に「引きつけあう力」がないと、個は個のままにとどまり、家族とならない。だから個に求められるのは
自分が何かを引きつける力 「引力」
自分が何かに引きつけられる力 「感性」
の2つの力がないといけない。自分が何かを引きつける「引力」とは、その人の魅力。個である自分に魅力があれば、周りが集まってくる。しかしそれだけでは引きつけあえない。自分がなにかに引きつけられる「感性」がないと、引きつけあう関係にはならない。たとえば街を歩いているとき、路傍の花に足をとめるのが「感性」である。どんなに美しい花を見ても
その花が美しいと感じる力がないと
花は活きてこない
4.オンライン時代に求められるチカラ
あなたがリーダーとなって新しい仕事をしようと考えたとき、みんなが仕事だから仕方なく集まるのと、新しいリーダーがあなただからと仲間が喜んで集まる場合のちがいはなにか。それは、あなたに引力と感性があるかどうか。この2つの「力」を持たないと大切な仲間が集まらず、めざす目標以上のことを達成できない。そこがリアルかオンラインかは大きな問題とならない。
たとえば会社に勤めていたとする。毎朝、どんなに眠くても電車に乗って会社に通う。月曜日から金曜日、朝9時から夕方5時まで、会社で仕事をして給料をもらう。上司に与えられた仕事をこなす。だから仕事は楽しくない。ところが仕事が楽しいという人がいる。自分がそうしなければと考え、社会のためのことをして、社会から喜ばれて、お金がもらえるなんてありがたいと思う人がいる。仕事を楽しくないと思う人と楽しいと思う人のちがいは
「磁力」がひっくりかえっている
給料をもらうために会社で命じられたことをしていた仕事が、社会のためになるコトを一所懸命に行って給料をもらえることが仕事だと考えるようになると、自分の「感性」が変わり、社会のため=会社のためになにができるかと考動するようになる。
コロナ禍の現在、テレワーク・オンライン・分散型の働き方が是であり、会社は集まって仕事をすることが悪という風潮になっているが、その観点の前に
自分に「磁力」があって仕事を引きつけられるのか
自分が新しい仕事を見つけられる「感性」があるのか
がこれからの仕事で問われる。出社か在宅かではなく、会社に集まる集まらないではなく、自分に「磁力」があるのか「感性」があるのかが大事になっていく。
DX化が進んでいくなか、自分の仕事がなくなると心配するベテラン層がいる。本当はDXの知識・スキルがないという観点よりも、そもそもそのひとに「磁力」がないことが問題である。そのひとに磁力と感性があれば、リモートであろうとオンラインであろうと仕事はくる。電話もメールも入る。これまで磁力がないのに「決裁権限」があるというだけで、電話連絡があったりメールが入ってきた人は「決裁権限」がなくなったら、報告・連絡・相談する人はいなくなる。それが課題の所在である。あなたは、そのどっち?
5.引きつける力と引きつけられる力
オンライン時代、そしてメタバース時代をどう生きていけばいいのか。個は大事だけど、個であるだけでは十分ではない。なにかしらの集団に帰属することが求められる。
たとえばビー玉をバラバラにしたとき、マイクロプラスチックのように漂いつづけるのか、「集まり」が生まれるかどうかに分かれる。そこで問われるのは個。個に「引力」があるのか「感性」があるのかで、「集まり」ができるかどうかに分かれる。
男と女の巡りあいも同じ。引力と感性があるのか。相手の人をいいと思う「感性」と自分が相手の人を引きつける「引力」の2つの力が必要である。 |
もうひとつ大切なメカニズムがある。「共振」である。あるひとの他愛のない言葉や行動がひとを引きつけることがある。共振とは、振動するモノが外部の振動と同期して大きく振動することであり、地震のときに微弱な振動なのに、共振して大揺れするビルがある。このようにひとの他愛ないコトバで心を強く揺さぶられる(=共振する)ためには、感性としての「固有振動周波数(=固有値)」が必要となる。
ここでいう感性とは、「センス」という意味でなく、共振する「固有振動周波数」である。個人として、この「感性」=固有振動周波数を持たないと、振動波が来たとしても共鳴しない。
ひとの命や幼きものや弱きものへの慈しみは、人種や国を越えたひと共有の「固有振動周波数」である。この「固有振動周波数」があるから、それにかかる振動波が来たとき、一様に胸をうたれ涙浮かべたりする。 ピカソの絵を観てすべての人が感動するわけではない。ひとそれぞれである。それをいいと思う人もいれば、よく分からないという人がいる。これが「固有振動周波数」である感性である。私には、ピカソの絵の良さは分からない。 |
「引きつけられる」と「引きつける」ためには、「感性」と「磁力」が必要である。だから自分の固有振動周波数=感性を意識して磨いていくことが大切。磁力を身につけるには、思想や観念を行動に移すという実践力が欠かせない。
実際の行動や現実ほど、ひとに説得力をもつ表象はない。人々が引きつけられるのは、そのひとの言葉や観念ではなく、そのひとの行動や現実にある。リモート社会となったとしても、メタバース世界となったとしても、行動や現実が大切である。ボクの居場所はそこにある。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永
寛明)
〔note日経COMEMO 2月9日掲載分〕