社会がオンラインを求めだしている。コロナ禍となって2年が経ったが、大きな生活上の支障がないように感じている。今までのリアルの殆んどがオンラインで代替できると思えてきた。社会から「移動距離性」という制約が外れつつある。テレワークが主になり、出張が減り、顧客訪問が減り、オンラインミーティング・講演が増え、毎日の通勤が無くなり、一日の主たる場所が会社から家になり、都心生活から家と近所生活に変わった。しかし家と近所生活だけでは、どこか落ちつかない。どうもざわざわする。それはなぜか。これから、どうなっていく。
1.なぜ近所は落ち着かないのか?
近所には均質性がないからだ。そこにどんな人が住んでいるのかよく分からない。いろいろな人が住んでいる。だからなかなか馴染めない。毎日のように通っていた会社の人は、「同じ釜の飯を食う」仲間だった。会社には価値観の「均質性」があった。薄れつつあったが「社縁」があった。
会社中心だった生活から、コロナ禍で家中心の生活になった。しかし家の外に出て会う人は、自分と同じような価値観の人かどうか分からない。同じような価値観をもった人々とつながりたいと、SNSに入ってもリアリティに欠ける。テレワーク社会になろうとする現在、私たちはそれに大きく揺れだしている。
価値観が違いすぎる人たちと一緒にいることは、心地よくない。あまりにも価値観がバラバラだと、落ち着かない。たとえば同じような価値観を持った人たちのなかで良い服を着ていたら、「良い服、着ているね」と言ってもらえて、ちょっと嬉しくなり、ちょっと優越感を覚えたりする。しかし自分の価値観と違った人たちのなかにいると、自慢の服を着ていっても、まわりからなにもいってもらえない。
コロナ禍になって3年目。移動距離性がなくなろうとする世界で、リアリティを求めて、新たなつながりをつくろうとする。しかしそれがどんなに精微なものになろうと、バーチャルなコミュニティでは満足できない。だから「心地よさ」を求めて家の近所でリアルを感じようとするが、心安らかにならない。なぜなら私たちが求めるのは
価値観の均質性
だからである。同じような価値観の世界のなかで、ちょっと努力をしたり背伸びをして
優越感や満足感を求める
そのなかで、ほっとする、心が穏やかになる。そういう場所を求めている。しかし家の近所には、いろいろな人がいて価値観はバラバラ。だから落ち着かない、ざわざわする。
2.なぜタワーマンションに住みたいのか
SDGsの流れのなか、多様性、ダイバーシティが時代の言葉となっている。社会において、それはそれで重要なテーマだが、あまりにもバラバラだとバランスを欠く。自分の居場所に自分と同じ価値観の人たちがいないと落ち着かない。
町で考えてみる。古い町には、何十年も前から住んでいる家もあれば最近引越してきた家もある。大きな家もあれば小さな家もある。30年前に建った戸建もあれば昨年建った高層マンションもある。年輩夫婦もいれば子育て家族もいて若者もいる。三世代家族もいて単身者もいる。そんな混ざりあった町が理想だと唱える人も多いが、自分たちが本当にその町に住むとしたら二の足を踏む。そこにずっと住んでいる人たちのなかに入って、うまくいくのだろうか、仲間に入れてもらえるのだろうかと心配になる。小・中・高校の転校とはちがう。町のなかは、価値観・背景がちがいすぎる。だから住むならば、ちょっと優越感・満足感を覚えるタワーマンションがいい。それも
新築タワーマンションのように
同時に入居するのがいい。
「よ〜いドン」がいい。
タワーマンションならば同じような販売価格帯だから、入居者は同じような人たちが住むはず、そこは「均質な町」となるはず。階数格差や床面積格差もあるが、バラバラという感じではないだろうと考える。「みんな一緒」と思えるだろうから、きっと安心なはずだ。タワーマンションの駐車場に停まっている車の差があったりするだろうが、それは根本的な差とはならはないだろう。だからタワーマンションならば、心地いいだろう。しかも新築でみんな一緒に入居できるので、「よ〜いドン」で安心だ。
しかしニュータウンや分譲住宅やマンションも、入居家族の年齢・家族構成・経済状況が変わり、引越したり、売ったり、買ったり、老朽化したり、リフォームしたりとなり、「みんな一緒」が持続できなくなる。時の経過とともに、バラバラになる。時を重ねると町は馴染んでいくと考えていたのは、今は昔。同じ場所に住んでいるというだけで、町としてのまとまりがなくなった。バラバラな価値観の違う人たちといると、不安になるようになった。
「エントロピー増大の法則」がある。物事は放っておくと、乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自覚的には元に戻らないという法則である。日本の町も、とりわけ戦後、そうなっていった。夢のニュータウンとして開発され、その町に住む人々は年齢を重ね、子どもたちは独立して家を出て家族数は減り、みんな高齢化しシルバータウンとなり、いつか住む人がいなくなってゴーストタウンになる。そんな町々が日本中に増えた。
世の中・企業でSDGsだといい、多様性、ダイバーシティを標榜するようになったが、エントロピーが増大するのは必然。そもそもそのエントロピーが増大するとなにが問題かというと
価値観の尺度が決まらなくなり
自分の優越性が決まらなくなる。
価値観がバラバラだと、そうなる。それがつらい。これまで日本は、みんな一緒、それが普通という価値観の尺度が決まるなかで、ちょっとした優越がでてきた。しかし多様化するということは、価値観の尺度が増えるということ。そうなると不安になる。1970年代前半に「1億総中流意識」社会になって50年が経った。徐々に「均質化」という世界観から外れはじめる人が増え、バランスが崩れだした。そしてコロナ禍前後から、「格差社会」といいだした。
それは、20年前にヒットしたSMAPの「世界に一つだけの花」の世界観にも、あらわれている。ボクたちは他人と競争して一番になろうと頑張ってきた。しかしそんな競争ばかりしてNo.1にならなくて、もういいじゃないか、Only oneをめざしたらいいじゃないか。自分は自分でいい。他人と同じでなくていいじゃないかとうたわれた。しかしそれは別の見方をすると、世界でいちばん綺麗な花だったらみんなが見向いてくれるが、花ひとつひとつがちがっていたらだれも見てくれないこともあるということにつながる。そんな世界観に日本は入っていっていた。 |
3.みんな一緒が大事
多様性・ダイバーシティをめざそうというが、むしろ「均質性」が、これからのコロナ禍後社会に大きな影響を与えていくのではないだろうか。なぜか。均質な世界では「尺度」を決められるという重要な論点がある。
「そんなことはない。色々な価値観があった方がいい。社会が均質化すると、価値観があやふやになる」という人がいる。「金持ちの人とそうでない人がいて、みんなが裕福になったら、「リッチ」という価値観が無くなってしまう。そうなったら、経済的に恵まれる人になりたいというベクトルが無くなってしまう」という人がいる。 |
本当にそうだろうか。均質化した世界観がなくなると、だれが一番なのかを徹底的に争うことになる。そういう世界観ではなく、これまで私たちはみんな一緒という世界を求めていくなか、中流・普通・まんなかという世界が大きくなり、その世界のなかでちょっとリッチになりたい、ちょっとイイねといわれたい、28歳になったらこうなりたい、35歳になったらこうなりたいというような社会に貼りつけられた世界観がうまれ、そのなかで自分がどういう立ち位置をとるかを選択して、それに向けて努力して、それが手に入れられるよう生きてきた。
みんな一緒が大事。ボクは、普通の上でいい。そこでみんなと一緒になれたらいい。いや私はちょっと頑張って、BMWに乗りたい。オレはちょっと無理してでもタワマンに住みたい。みんながなんとなく持っている均質性の幅のなかで、それぞれの道を選択して生きてきた。 |
しかしそんな世界のなかからスーパーリッチな人がでてきて、宇宙ステーションに行ったり、ロールスロイスに乗っていないと、誰も見向いてくれないとなると、みんな、諦めるようになった。
そんなの、ムリ
最初から、できないと思うようになった。だから均質性が、自己満足、ある面ではWell-beingの人生のために欠かせない。
たとえば海外高級車。若くても残価設定ローンなどを活用して高級車が買えるようになり、高速道路で海外高級車をよく見かけるようになった。たとえば「ベンツ・オーナーズ・ミーティング」といったベンツオーナーの集まりがあり、高速道路をベンツばかりが走っている場面に遭遇したりする。ベンツ以外の人にとってはベンツがいっぱい走っているなと思うだけだが、走っているベンツオーナーズの人たちにとっては
「ベンツに乗っている」ということが大事。
まわりのみんながベンツ。
自分もその仲間に入っている。
その人たちにとっては、それが大事なのだ。ベンツがいっぱい走っている姿を見たら「ベンツだらけですごいね」とちょっと思うだけだが、みんなと一緒にベンツだらけで走っている人は、ベンツに乗っている他の人と一緒にいることで満足なのである。外の人からどんなふうに見られるのかは重要ではない。このように客観的満足ではなく主観的満足が、日本人にとって大切となった。これこそ、現代日本人の基本的な特性であり、消費経済の論点となっている。
次回は、コロナ禍後社会構造をつかむうえで重要な「主観的・客観的」満足とはなにかを考えていきたい。
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 2月16日掲載分〕