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2022年03月03日 by 池永 寛明

【場会篇】「誰からリストラするのか」から3年 ― みんな一緒のなかのちょっとした満足(下)

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北京五輪が終わった。いろいろな問題がおこったが、数々の感動にも湧いた。“すごいね、カッコいい、よかったなあ”。 しかしその感動は長くつづくわけではない。メダルをとった瞬間あんなに感動したコトが、次の感動の瞬間には薄れだし、その次の感動の瞬間には過去となる。かくのごとき私たちは感動を次々に忘れていく。それだけではない。感動させてもらった選手たちのその後に思いを至すことは少ない。

 

 

1.オタク文化がなくなったのは

 

40年前、音楽番組「ザ・ベストテン」をテレビで視ることが楽しみだった。毎週変動する人気ランキングに一喜一憂した。その番組の視聴率は高く、その番組を見ていないと、翌日の学校で話題から取り残された。そんな時代だった。

 

今も「流行曲」はある。昔と見たり聴いたりできるのが限定されていた時代とちがって、いつでもどこでも視聴できるようになった。突然にその曲が流れだし、突然に爆発的に広がる。人気が出たら、これでもかあれでもかと流れる。そうすると最初はその曲を気に入っていても、親や年輩者までもが、”この歌、人気らしいね”といいだしたら、一気にイヤになる。そこで次のものを探そうとする。その次に求めるのは

 

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自分が好きだった無名のバンドの人気に、火がついた。あっという間に、みんながそのバンドに飛びついて聴きだすと、売れない時から応援していたそのバンドがイヤになり、「これからはこの子たちだよ」とまた別のバンドを探しだして、強烈に推して、みんなから“すごーい”と言われる、ちょっとした満足感が大事だった。

 

といっても、なんでもいいというわけではない。センスが大事。“これからは、この音楽だよ”と尺八のアーティストを紹介したとして、みんなが思っている「均質化」したステージから外れると、“すごーい”とはならない。

 

オタクは1980年頃から始まった。SF・マンガ・アニメのファンたちから生まれたサブカルチャーだが、オタクが社会的に均質化したステージとして認められて、世界的にも広く普及したので、特殊というニュアンスもあった「オタク文化」が消えた。オタクは多くの世代に定着して普通になり、特殊ではない普通となった。

 

アニメは子どもが観るものと言っていたのは今は昔。今では大人も観る。大人になってもアニメを標榜できるようになったのは、アニメが「一般化」したからである。その一般化した世界のなかで、このアニメがいい、あのアニメがいいという動きが広がる。その世界のなかでのちょっとした違いで、満足しあう。しかしその世界では満足できなくなると、今度は「声優さんが好き」というグループがあらわれ、そこでちょっと優位性を示して、満足度を高めようとする。つまり

 

ちょっとした優位性を示すためには

外してはいけないことがある

 

山小屋生活をする人が少人数のときは満足していたが、山小屋生活する人がどんどん増え、それが「普通のこと」となり、みんなが“山小屋生活ってイイね”と言いだすと、普通となった山小屋生活に飽きてしまう。そこで、ちょっと違いを出そうとする。ガーデニングにこだわったり、カヌーをしたり、狩猟してジビエを楽しんだりして、それをしている自分たちの姿を見て、誰かに「いいね」といってもらいたいと考えて、本当に誰かにそういってもらえたら、ちょっと嬉しくなる。ここで大切なのは

 

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2.誰からリストラするのか

 

「あなたは入社15年目の管理職です。あなたには部下が10人います。そのなかから1人をリストラしなければならない状況になりました。管理職のあなたは、誰からリストラしますか?」

 

この設問をグループディスカッションした女子学生たちが導いた答えは、「最も能力の高い人をリストラする」だった。3年前に、関東のある女子大学での授業の出来事を書いたCOMEMOに多くの声をいただいた。こんなことでは日本は滅びてしまうという声もあったが、「なんとなく分かる」という声の方が圧倒的に多かった。どういうことだろうか。

教科書的には、労務管理的には、そうであってはいけないのかもしれないが

 

自分にもそういうところがあるな

 

と思った人が多かったのではないだろうか。実際に自分が誰かをリストラする立場になったら、やはりいちばん「できる人」「進んでいる人」を選ぶのではないだろうか。

 

職場に優れた人がいたとして、その人をめざして追いつこうとするのではなく、自分も一所懸命にやっているから、そんな特別な人を「評価の尺度」の原点にしてしまうと、自分は脱落してしまうかもしれないと考える。

自分の価値観をみんなと同じステージだとして守るためには、そういう飛び抜けた人には退場してもらわないといけない。どうせ、そんな優秀な人はどこかに行くんでしょ?どこかのサイトにエントリーしてスカウトされていなくなるんでしょ?と考える。この立候補型のスカウトビジネスが伸びてきているのも、リストラCOMEMOが刺さる背景ではないだろうか。

 

このCOMEMOを書いて3年経った。それからコロナ禍となり、テレワークにオンライン会議にオンライン講演とオンラインビジネスが普通になった。コロナ禍中の不透明な先行き観のなか、3年前に女子大生たちが選択した答えがリアリティを増す。

 

優秀な人材は今の組織にきっと満足していないだろうから、いつか飛び出していくだろう。飛びだしていくかもしれない人は力があるから、個人としての成果は確かにあがる。しかし個人プレイだけでは組織全体の目標は達成しない。組織全体の成果をあげていくためには、組織をよしとする人たちが連携して組織全体で頑張るべきではないだろうか。

なにか足りないのではないか、こうしたほうがいいよ、こういうやり方もあるのではないかと、みんなで喧々諤々議論して、智恵を出しあい、試行錯誤して、前へ前に進んでいこうという観点がないと、組織は強くならない。突出した力の持ち主だけでは、組織は強くならない。


世界と比べて日本はダメなのではないかというのなら、うまくいっていると言われる国を研究して日本人も頑張らないといけないと考えないといけない。日本はもうダメだ、あの国がいいと思うのなら、その国に行けばいい。しかし日本にはそうは言うが、そういう人は多くない。日本人はなんだかんだいって、日本で頑張ろうとする。

 

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これが北京五輪のカーリング女子チームへの日本人の熱狂の構造である。個人種目も人気だが、日本人はジャンプ団体やスピードスケート女子団体パシュートやノルディックスキー複合団体など団体種目が好きである。日本人は世界の選手に体力的に劣るところを練習に練習を積み重ねて身につけた卓越した技(わざ)でカバーする。それらのそれぞれの力をひとつに結集して、チームワークで勝つという姿に共感を覚える。

それが日本人の方法論だとすると、女子大生たちが一番優秀な人をはねようとしたことが分かる。みんなで力をあわせて一所懸命努力して頑張って頑張って頑張りぬいて目標を達成する姿に、日本人は共感する。スーパースターは、なにもしなくてもできるだろう、なにも努力していないように見える、普通の自分たちとはちがうと思ってしまう。

 

日本に帰ってからの野球のイチローさんが宙に浮いているように見える。大リーグで、あんなに歴史的な活躍をするんだったら、日本に残ってともつと頑張ってくれたほうがよかったのではないかとどこかで思っている。だから世界的名選手となったイチローさんの日本に帰ってからの居場所は、どこかちがっているのではないかと感じる。

サッカーの中田英寿さんもそう。現在、大リーグで活躍している大谷翔平さんも、どうなっていくのだろう。大リーグで活躍すればするほど、彼は特別な人だからということで日本からはみ出され、日本に帰ってきたら帰属していた組織から押しだされてしまうことはなるのではないだろうか。

  


3.日本人が桃太郎が好きなのは

 

逆の話がある。大相撲は外国人が増えている。子どもの頃に来日して稽古を重ねて番付をひとつひとつあげて大関となり横綱となり、大相撲を支えている。しかし横綱となった朝青龍や日馬富士のように、モンゴルに帰った力士は日本人に忘れられる。しかし同じくモンゴル出身の横綱白鳳は数々の記録を残したあと、日本人に帰化して親方となることで、日本社会に受け入れられている。このように日本人は積極的に日本社会に入ってくる人を自分の「仲間」だとして受け入れる。

 

それは会社もそう。ある会社・組織のなかに、飛び抜けた人が入ってきたとしても、みんなのなかに溶け込み、みんなとともに頑張り、自分のみならずみんなの力を高めて、問題を解決したり目標を達成したりする人だったら、リストラされない。一緒に仲間として頑張ろうとなる。

 

こんな組織は駄目だ、もうどうしようもないと思う人は、組織にいなくてもいい。ラジカルな意思を表明するのはいいが、だからこうしよう、だからこうしなければならないと動かない、言うだけの人をよしとしたら、組織は成り立たない。ラジカルで力は飛び抜けていても、みんなと一緒になって頑張って、チームで何とかしていこうと考えて動く人でないと、組織はうまくいかない。

 

日本人が昔から、桃太郎がサル・犬・キジとともに鬼退治した童話に共感を覚えるのはそういう文脈である。女子大生たちが「優秀な人からリストラする」というのは、結構、日本人社会の本質をついていたのではないだろうか。日本人社会では

 

みんなで頑張ることが大事。

みんなと同じだということがイヤな人には

出ていってもらった方がいい。

 

それは日本の伝統的な「村八分」ではない。日本人は決してすぐれた人を村八分にはしなかった。村という組織のなかで、ネガティブなことを言った行動する人が村八分された。すぐれた人は、渋沢栄一のように自分から出て行った。

 

「出る杭はうたれる」という言葉もある。才能あふれ抜きんでている者は、妬まれ、妨げられ、出る首は切られるといわれてきた。そんな日本はだめといわれたりするが、日本は聖徳太子の十七条の憲法の冒頭は「和を以て貴しと為す」だった。明治維新の五箇条の御誓文の第二が「上下心を一にして盛んに経論を行うべし」だった。

日本人は「和」を大事だと、ずっと教えこまれてきた。そう考えると、「出る杭はうたれる」の本当の意味は、「だからみんなと仲良く頑張れよ」ということだったのではないだろうか。

 

これまでの3編をまとめる。私たちは、「みんな一緒のなかのちょっとした満足」を求めている。それはコロナ禍前も、コロナ禍後もつづいていく日本社会の基本潮流ではないだろうか。

 

あるスイーツ店が新しい美味しいケーキを売り出した。その新しい魅力的なケーキを見つけた人が、“これ、絶対に売れる”と、それを見つけた感動を友人・知人に伝える。すると、みんなが“すごい”と言ってくれる姿に、嬉しくなった。しばらくして、その店が話題になり、テレビで紹介などされて多くの人が知るようになったら、一気にその店への思いが冷めていく。すると次の店・アイテムをさがそうとする。

 

そこで、である。そのケーキ店はそういうお客さまの動きを読みとり、次のアドバンテージを生みださないといけない。そうしないと、取り残されてしまう。お客さまの姿を見つめつづけ、ちょっとづつ洗練させて、ちょっとづつ進歩させていく。そしてお客さまの満足をつかむ。

 

それは、ケーキ店だけの話ではない。ありとあらゆるモノ・コトに共通することであはないだろうさ。みんな一緒のなかのちょっとした満足さがしの旅は、売る方も買う方も同じである。

 


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)

〔note日経COMEMO 2月25日掲載分〕

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