「上司や先輩から怒られたことがない」人が4人に1人。おそらくそれは会社・組織だけの話ではないだろう。家庭でも学校でも同様の傾向だろう。人と人のかかわり方、人と人の関係性が大きく変わろうとしているのではないか。ものすごいことが、現在おこっているのではないだろうか。
1.怒られたことがない私
会社を3年で辞めた。会社がブラックだとか上司がひどいだとかと言って辞めた。その辞めた人の25%が
上司に怒られたことがない
ということにもなる。上司をひどいというが、その人は上司に怒られていない。どういうことだ。このことをつきつめていくと、「理想の上司」とはどんな上司かということにいきつく。どんなに「理想の上司」だといっても、上司という限りは、上司の言うことには服従しなければならない。服従するということは
自由を統制すること
になる。会社を辞めるということは、その「自由への統制」が耐えられないということになる。その人が「理想の上司」を求めるということは、おかしくないか?
2.困っている上司
「自分は自由を抑圧されている」といって、若者たちは会社を辞めた。上司からすれば叱りたいときがある。しかし叱れない。どうしたらいいのか
上司も、今の若者の扱いに困っている
だから組織のなかに「3割が怒られたことがない」という状況が生まれた。しかし怒られたことがないという若者たちは
「疎外感を覚えている」
「自分は期待されていない」
と思っている
あなた:「1週間までに、これをして」 新人:「来週まではできません」 あなた:「じゃ、これのここまでをやってくれないか」 新人:「これは初めての仕事なので、来週までにはできません」 あなた:「じゃ、やれるところまでをやってや」 新人:「どうして私だけ厳しくするんですか?」 |
そんなやりとりがつづいて、その新人は辞めた。その辞めた人は、「上司に厳しく指導されたことがない。だから私は期待されていない。私はいらないのではないか」と感じていた。だから辞めた。これをコミュニケーションの問題だとか技術論とかで捉えがちだが、人と人、お互いが理解しあう「知的基盤」が共有できなくなっているのではないだろうか。
3.自由のなかで、統制を求める若者
「自由」という観念が、子どもや若者に浸透している。なんでもかんでも「自由」を求めるようになった。時代は個性の尊重だといい、なにかを無理強いしたり、強要してはいけないというような空気につつまれた。その「自由」いっぱいの空気のなかで育った若者が
逆説的に「統制」を求めるようになった
その若者が求める「統制」は通常言うような統制ではない。自分が思うような、自分が望むような「統制」を求める。自由が担保されたうえで、自分に都合のいい「統制」を求める。自分が望む「統制」をしてくれる上司が
自分の「理想」の上司となった
あるお客さまと大きなトラブルがおこった。職場のみんなの本音は、そのお客さまの担当になりたくない、関わりたくない。そのだれも関わりたくないお客さまに、「あなたが担当になってくれ」と命じられた。なぜ自分なのか、他の人が対応したらいいのではないかと考え、「私にはできません」と断る。つまりこうだ。
自分はやりたいこと
好きなことだけをやりたい
自分だけが心地いい状態にいたいと
社会に求める
これって、自由主義の概念を超越している。
4.自由を求めるが、統制も甘んじて受け入れる
自由主義社会のなかでは、社会的弱者が最も被害を受ける。だから社会的弱者への特別な措置・仕組みを用意する。これが本来の自由主義。
しかし日本型自由主義はちがう。社会的弱者だけではなく、普通の人のみならず強者ですら、時として「弱者」になり、「特別な措置」を求める。すべての人が「弱者」になって、「優遇」「配慮」を求める日本社会は
依存社会
としか呼びようがない。
その依存社会でメリットを享受したうえで、隣の芝生を青く見る。自分が支払ってきた年金よりも多くもらっている高齢者がいると批判する。もらいすぎだろう、私たちが高齢者になってももらえないのに、なぜだ。コロナ持続化協力金も、そう。私はもらっていないのに、どうして彼らはもらっているのだ。おかしいではないか。彼らだけがうまい汁を吸っている。ずるいと嫉妬する。
昔は自分のまわりの何人かに不平不満を言うだけだったが、現在はSNSがある。不平不満をSNSで自由自在に発信する。いっきに炎上させて、その人を徹底的に袋叩きにする。現代の日本社会は
嫉妬社会化
を強めていっている。ものすごいことがおこっている。これから日本はどうなっていくのだろう?
(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)
〔note日経COMEMO 6月15日掲載分〕