「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えてみたいと思います。初回は、幕末の日本にやってきたペリーの謎です。私たちは、そこからなにを学ぶべきでしょうか?
1)ペリーが日本にやってきた!
1853 年、時は幕末。日本中が恐怖のどん底へおとしいれられました。
ペリー提督率いる黒船が幕府に対し、開国を要求したのです。はじめて見る巨大な黒い艦隊は、江戸の街を震撼させました。
黒船騒動では4隻の鋼鉄製の蒸気船が太平洋を渡ってきたイメージが強くありますが、石炭を焚いた蒸気船はそのうちの2隻です。しかも蒸気機関による航法は港湾内に限定されており、広い大洋は帆で航海していました。残りの2隻は、純粋な帆船です。
艦体も木製で、腐食防止の黒いタールが塗られていました。そして、広大な太平洋を横断したのではなく、大西洋から東廻りの海岸沿いにアフリカ喜望峰を迂回してインドを廻り、沖縄で停留してから江戸にむかっています。
アメリカは当時、産業革命のまっただなかにありました。機械化された工場やオフィスは夜遅くまで稼働しており、ランプの灯火や潤滑油として鯨油を必要としていました。
捕鯨船は船上で鯨油の抽出までおこなうため、大量の薪や水を必要とします。物資補給の目的で、アメリカは日本に協力を求めたのです。
また、工業製品の輸出先として4億人の人口をかかえる中国(清)という巨大マーケット開拓のために、日本に寄港する必要がありました。日本で帰りの燃料や食料物資を補給することができれば、その分多くの商品を船に積み込むことができます。
中国市場というキーワードは、その後の歴史でも何度も登場します。日本にとっての中国とは、近年の「世界の工場」のイメージのほうが強いかもしれません。しかし、欧米の視線は過去から現代にいたるまでずっと世界最大の市場にむけられており、中国市場を虎視眈々と狙い続けています。いつの時代も中国を抜きにして世界を語ることはできません。
アメリカは日本に対して、はじめは友好的に交渉していましたが、幕府の煮えきらない対応にいらだち、やがてペリーを送って武力で開国をせまります。そうして不平等条約をむりやり結ばされた、と学校で習った記憶がありますね。
しかし、そうした条約を結んだわりに、アメリカという名前は幕末の歴史から見なくなります。オランダやスペイン、ロシアのほかには、薩摩藩に近づいたイギリスや幕府のあと押しをしたフランスしか記憶にありません。
2)ペリーが日本にこなくなった!
アメリカは自国に有利な条約を結んだのに、日本の幕末史から消えてしまった。それは、いったいなぜなのでしょうか?
アメリカ国内で南北戦争がはじまり、日本や中国どころでなくなった事情もあります。
北部で工業が勃興し、大量の労働力が必要となりました。一方の南部では、豊富な黒人労働力をつかった綿花栽培で莫大な利益をあげています。南部の奴隷を開放して北部の工場労働力に充てようという、第三者から見ればどっちもどっちのような発想が生まれます。
そうした背景から、リンカーンによる奴隷解放を旗印とした戦争が勃発し、アメリカを二分する戦いにまで発展したのです。
しかし、ペリーが来なくなったもっとも大きな理由は、別にあります。
アメリカ国内で石油が発見されたのです。照明の燃料が、鯨油から石油に変わったのですね。
ペリー来航のわずか6年後の1859年、米ペンシルベニア州で石油が発見されました。煤の出る鯨油と違って、灯油はにおいも少なく明るいということもあって、またたく間に人気商品となりました。そのため、遠く日本近海まで捕鯨をする必要がなくなり、鳴りを潜めてしまったのです。
幕末の日本人は石炭による蒸気機関に驚いていましたが、植民地化された周辺アジア諸国の状況を理解するや、すぐさま開国して富国強兵に舵をきります。そうして、石油をはじめとするエネルギーを大量消費する産業政策に一歩を踏みだすことになるのです。
しかし、もし江戸幕府が当時の世界情勢を正確に把握していれば、日本は不平等条約を結ばされることもなかったでしょうし、その後の条約改正に多大な労力をかける必要もなかったはずです。
情報の重要性は、昔も今も変わっていませんね。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。