「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。前回は、日本では幕末にあたる時期のアメリカの動きをみてきました。ここで、当時の世界情勢を把握する意味でも、イギリスの三角貿易についておさえておきたいと思います。
1)原料を輸入するための三角貿易
大航海時代から世界中に植民地を拡大してきたイギリスですが、さらに石炭を燃料とした蒸気機関を用いた産業革命を起こし、その勢力をますます拡大させていきます。
現代は独立してアメリカやカナダとなっている北アメリカ大陸も、イギリスの植民地として始まっています。アフリカ大陸では、エジプトをはじめナイジェリアやスーダンなど20カ国近くがイギリスの植民地でした。オーストラリアやニュージーランドも、イギリスの植民地です。中東ではイラクやイスラエル、東南アジアではシンガポールとマレーシア、そしてミャンマーや香港などがありました。そして、イギリスにとってもっとも重要だった植民地が、インドです。
当時のイギリスの一大産業といえば、紡績です。原料も羊毛から始まり、木綿へと切り替わりました。明治時代も後半になると、その地位を日本に奪われるようになりましたが、当時のイギリスは生活必需品でもある衣類を大量生産することで世界を牛耳ろうと目論見ます。
経済のさらなる拡大には、原料の木綿を国内生産だけでなく海外からも仕入れ、それを国内で加工した綿織物を海外で販売しなければなりません。燃料となる石炭はイギリス国内で豊富に産出されますが、原料の綿花は輸入に頼ることになります。
そこで考え出されたのが、三角貿易です。まずは綿花を仕入れるための三角貿易をみてみましょう。イギリスはまずアフリカ大陸へ赴き、原住民を大勢集めます。奴隷貿易はポルトガル、スペインといった国々で始められましたが、その後はオランダやイギリスへ波及していきました。
強制的に連れ出されたアフリカ原住民たちは、劣悪な環境でアメリカ大陸へと運ばれます。そのアメリカでは彼らの労働力をフルに活用して、サトウキビや綿花が大規模に生産されるようになりました。
イギリスは、アメリカとアフリカ原住民たちを取引した代金で綿花を買って、本国へ持ち帰ったというわけです。大きな元手をかけることなく、原料の仕入れに成功しました。
このように、搾取できる国から搾取し、その成果を別の国へもっていくことで望みのモノを手に入れる。これこそが、帝国主義(植民地支配によって自国の利益や領土を拡大しようとする政策)を当時選択していた国々が考え出した三角貿易でした。
2)綿織物を輸出するための三角貿易
じつは、イギリスの植民地だったインドでは、歴史的にみてもキャラコと呼ばれる綿織物が一大産業となっていました。また、中国の綿織物も滑らかな質感で特産品となっていました。
イギリスははじめ、これらの国から綿織物を輸入していました。しかし、それによってイギリスの伝統産業でもあった羊毛製品が大打撃を受けます。そこで、国内で人気だった綿織物を自ら生産しはじめ、さらには国内で製造した綿織物を逆に輸出するという政策に転換したのです。そうした背景にあったのは、イギリス発の産業革命、すなわち石炭をもちいた動力の活用です。機械化によってモノを安く大量に製造し、蒸気船で遠くまで運搬できるようになったことには、エネルギーが大きく影響しました。
清はイギリスから距離があったため、イギリスからなにかを輸出しようとしても輸送費が高くついてしまいます。そこで、インドにイギリス産の綿織物を売ることにしました。しかし、インドの伝統産業でもある綿織物が簡単に売れるはずもありません。そこで、原料であるインド綿花を大量に購入し、インド国内における綿織物の生産の邪魔をすることで、イギリス製品の販売を目論見ます。しかし、まだまだ貧しかったインド国民にイギリス製の綿織物を買う力はありません。
そこで、インドで芥子を栽培させて加工したアヘンをイギリスが購入し、その代金を元手に綿織物を売るというシステムを編み出します。イギリス産の綿織物が、アヘンと物々交換されたといってもいいでしょう。
そのアヘンを持って、清へ向かいます。それまでのイギリスは、清から質の高かった綿織物や茶を購入していました。その代金は銀です。大量の銀がイギリスから清へ流れていきました。なんとしても、この銀を取り戻さなくてはなりません。前述したように、イギリス製の綿織物は清では売れません。
そこで登場したのが、インドで作らせたアヘンです。これを清に売り、得られた代金で清から茶や磁器を買い求め、イギリス本国へ送っていました。
もちろん、清王朝も黙ってはおりません。清にはもともとアヘンを吸引する習慣が人々にはありました。しかし、過度な流入によって国内の銀が大量に流出することで財政難に陥るとともに、人々の健康阻害も問題化していきます。
清政府は国内のアヘンを取り締まり、アヘンを没収して破棄しました。そして、一切のアヘン貿易を禁止します。一国の政府として、当然の措置を実行したまでです。しかし、帝国主義をとっていた当時のイギリスが黙ってはいませんでした。イギリスは清に対しアヘン戦争を起こし、勝利するとすぐさま南京条約を締結するのです。
その結果、清はイギリスとの貿易が自由化されるとともに、香港島が割譲されました。中国に対するイギリスの影響は、帝国主義が過去のものとなって半世紀以上経過した香港返還の1997年まで続くことになりました。
一見するとエネルギーとは無関係な帝国主義全盛時代の歴史的事象ではありますが、背景にはエネルギーの利用が大きく関係しています。こうした事実を把握しておくことは、その後の日本がエネルギーを求めてどのような行動に走ったのかを理解するための一助となります。
江戸時代は薪を燃やしていた時代でしたが、明治時代になって石炭を用いた産業革命が日本でも起こり、やがて石油も含めたエネルギーを大量に使う産業構造や生活スタイルが一気にやってきます。エネルギーの獲得がすべてに優先されるようになり、エネルギーが原因で戦争に突入するという悲しい時代へと移っていくのです。こうした歴史からエネルギーに関連した情報を学び、考えるというプロセスを踏むことが大切だと考えています。