今回の「歴史に学ぶエネルギー」では、戦前戦中の日本の石油戦略について詳しくみてみるとともに、優秀だった日本の石油技術者たちに焦点を当ててみたいと思います。
1)戦前戦中の日本の石油戦略
日清戦争で勝利した日本。その結果として、台湾が日本に割譲されることになりました。
その台湾には、もともと7つの油田があることが知られていましたが、その産油量は年々減少しているという状況でした。そこで当時の日本政府は、台湾で新規の油田を探し求めはじめます。すると、北西部の錦水という場所で大ガス田を発見するのです。
驚くべきことは、ここからです。そのガス田の掘削深度は、なんと3千500メートルにも及んでいるのです。当時の世界の掘削技術では、3千メートル以上の深掘はわずか9抗しかありません。しばらくして、そのガス田は枯渇にむかってしまうのですが、資源もない日本が大深度掘削に成功した事実は画期的であり、日本の石油技術史に大きな足跡を残すことになります。
しかし、その優れた技術を活用する機会は、戦後に訪れることはありませんでした。
技術者たちの優れた資質は、満州でも発揮されています。
昭和初期、南満州鉄道は中国北東部の撫順炭鉱で石炭の掘削をしていました。撫順炭鉱とは、日露戦争後にロシアから譲渡されたものです。
採掘の際、石炭層の上部を覆う厚さ180メートルもある岩盤層を取りのぞく必要にせまられました。この岩盤は比較的浅い地層にあるため、まだ石油に変性しきっていない前駆物質ケロジェンが高濃度で含まれています。この岩盤を粉砕してから乾留すれば、ガスと油が得られるというわけです。
こうした岩盤層からはじめて本格的に燃料を取りだしたのは、じつは日本でした。20年にわたる調査研究をかさね、1930年にオイルシェールの実用化に成功したのです。
石油の確保を求めていた海軍の協力のもとに工場がつくられましたが、真珠湾攻撃に出撃した潜水艦の燃料には、この人造石油がつかわれています。この撫順の工場は、いま現在でも順調に稼動しています。
これを美談としてとらえるのではなく、ここまで追い詰められていながら戦争に突入せざるをえなかった悲劇としてとらえるほうが正解なのかもしれません。
美談のような悲劇は、まだ続きます。
中国の大慶(ターチン)油田とは、今でも中国の総生産量の20パーセントを算出する世界有数の大油田のひとつとなっています。石油の全量を輸入していた中国を産油国に一変させた重要な油田です。近代になって大油田が発見された大慶なのですが、大慶という地名は1964年に命名されています。それまでは、地名すらついていない場所でした。
じつは、当時の日本が石油埋蔵を確信し、大資本を投下しながら見捨てた油田、それが大慶油田だったのです。満州石油株式会社を設立させ、いざ掘削というときに日本政府の大方針が下されました。
「南方に集中せよ」
東南アジアへの南下侵攻により、満州の大慶油田は近世まで地下深く埋もれたままになってしまったのです。「もし」日本が大慶油田の掘削に成功していたら、という仮定はやめておきましょう。しかし、当時の日本の技術者たちの能力と執念が優れていたことは、まぎれもない事実だったのです。
2)中東でも発揮された日本の技術
ペルシャやメソポタミアで石油資源の争奪戦がおこなわれていた最中のことです。なんと戦前の日本に対して、中東の開発案件がもち込まれていたのです。
「イラクの油田開発におけるイギリス持ち株の一部を日本に譲渡してもよい」
日英同盟の流れを汲んだ意向を伝えるスタンスで打診されてきたのです。イギリスとフランス、そしてアメリカの間で分捕り合戦になったモスール油田ですが、日本に出資の話がもちこまれたのが、まさにこのモスール油田でした。しかし、日本政府の腰は重かった。海軍の協力が得られなかったからです。
当時、日本海軍はインド洋以西の資源に対しては、なんの関心ももっておりませんでした。輸送ルートが長すぎて護衛ができない、というのが最大の理由でした。やがて、石油の利権が戦争の結果を左右することになるのですが、日本海軍は自組織の責任問題の議論に終始していたのです。
日本が二の足を踏んでいる間に、イギリスは手のひらを返した態度で日本を拒むようになってしまいます。満州事変によって急速に軍国主義にすすんだ日本への警戒心が、拒絶の理由でした。
歴史に「もし」は禁物ですが、「もし」日本がモスール油田の権益に参画できていれば、戦争に発展することはなかったかもしれません。
中東に関して、驚く話がまだあります。サウジアラビアまでもが、じつは日本に利権供与をもちかけていたのです。
当時の中東諸国はヨーロッパ勢やロシアから、いいように扱われていました。白人による支配が、中東もふくむアジア世界に吹き荒れていた時代です。そのような情勢のなかで、極東の小国である日本が帝政ロシアを破ったのですから、世界中が驚愕したのです。同じ有色人種である日本人が日露戦争に勝った。トルコやサウジアラビアなどアジア全域の国々が、日本に賞賛と尊敬を抱いていました。
そのようななか、サウジアラビアのサゥード国王は、ソーカルの提示した条件が自国に不利なのではないか、という不信を抱きはじめていました。そこで同志の日本に声をかけたのです。さっそく日本は石油技術者を現地に派遣します。
彼らはサウジ全土を調査し、「ここが有望な場所」とハサ地区の利権を主張しました。そこは、のちにガワール油田やサファニア油田などの超巨大油田がつぎつぎと発見された場所でした。さらに「もっとも有望な場所」としていたのが、後年にアラビア石油が掘り当てたカフジ油田の地域だったのです。
サウジアラビアの利権獲得は条件が合わず成立しませんでしたが、鉱区のまともなデータがないこの時代です。石油埋蔵を言い当てた彼ら日本技術者たちの慧眼には、驚きを禁じ得ません。
これらの史実を歴史の埋もれたできごととして流すのではなく、日本の底力を見直し、現代の活動に活かす方法を模索しなければならないでしょう。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。