前回の「歴史に学ぶエネルギー」では、昔の日本の石油技術の高さをみてきました。しかし、実際の政策となると話は一変します。現代でも同じような状況が随所に見受けられますが、政治的な戦略に不得手であることが暴露してしまいます。
1)石油事情に詳しかった山本五十六
のちに元帥海軍大将となる山本五十六は、現在の新潟県長岡市に誕生しました。
高齢の父母から生まれた五十六ですが、その名は誕生時の父親の年齢からつけられています。古くから石油の存在が認められていた長岡市で育ったこともあり、五十六は地質学を専攻しています。文武ともに秀でていた彼は、30代の頃に語学研修でハーバード大に留学もしています。
アメリカでは、日本で専売指定されていた砂糖と塩が市場で大量に流通されていることを知ります。ここでの生活をつうじて、アメリカとの圧倒的な差に衝撃を受けました。石油をはじめとする戦略物資の重要性を身に染みて感じとったのも、この頃です。
石油のもつ効能を十分に理解していた五十六は、軍人になってからも、世界第二位の産出量を誇ったメキシコの石油開発の現場もひそかに視察しています。のちにメキシコ各地からかき集めた原油100万バレルを日本のタンカーに積み込んで輸送することに成功するのですが、その計画に五十六の果たした役割は大きかったといえるでしょう。
歴史の皮肉ですが、このメキシコ産石油を手に入れたことが、日本政府に真珠湾攻撃を決断させる一因になったとも言われています。アメリカから禁輸された石油が入手できたのですから、軍部の喜びはいかほどのものだったでしょうか。
しかし、当然のことながらメキシコからの輸送は、これが最初で最後となります。
真珠湾を攻撃されたアメリカが、メキシコ政府に激しい圧力をかけたためです。メキシコにとって日本とアメリカのどちらが重要性をもっているか、少し考えればわかる簡単な問題です。しかし、その程度の正常な判断ができないほど、日本は追い込まれていました。
2)自組織の責任だけを追い求めた顛末
満州でおこなっていた石油の開発に対して、「南方に集中せよ」との撤退指示が出されます。その南方ですが、さらに恥ずかしい失態を重ねることになります。
蘭印とはオランダ領東インド諸島を指しており、今のインドネシアとほぼ重なる地域です。日本は、蘭印で生産されていた石油資源の奪取をもくろみます。日本はこれらの地域を勝手に大東亜共栄圏とみなしており、「武力侵攻しないと約束すれば、交渉は日本のペースですすむ」と安易に考えていました。
そもそも、交渉に臨む段階から日本は高圧的な態度でした。使節団に海軍艦艇や陸戦隊も連ねて威嚇訪問するという砲弾外交です。交渉がうまくいくはずもありません。
代わって登場したのが、阪急グループの創始者でもある小林一三です。
当時の商工大臣だったため派遣されたのですが、宝塚歌劇をつくった一三は実業界の成功者ではあっても、石油や外交には知識も経験もない素人です。そもそもの人選に無理がありました。小林一三もいい迷惑だったことでしょう。当然、たいした成果もなく帰国しています。
国家の存亡がかかった重大な交渉であるにもかかわらず、このような対応しかできなかったことは、悲劇というより、もはや喜劇にしか見えません。
戦争の過程で、たとえ彼らの油田や製油所を押さえたとしても、すぐに石油がでるわけでもありません。日本軍の来襲に備えて、油田や製油所はことごとく破壊されていたからです。
日本軍がビルマへ攻めこんだ際、バーマ石油が操業していた油田が日本軍の手に落ちそうになりました。すぐさま、バーマ石油のマネージング・ディレクターであったロバート・ワトソンは「製油所と油田を破壊しろ」と命令します。撤退する前に、自社設備を自らの手で破壊させる。それほど石油は戦略物資と認識されており、各国が血眼になって確保すべき重要資源だったのです。
やがて日本政府は「白紙」の発行に踏みきることになりました。
「赤紙」と呼ばれる召集令状に対し、強制徴用の場合は「白紙」を送ります。新潟などで活躍していた数少ない石油技術者たちを白紙で集めて南方へ送り、設備の復旧作業に当たらせたのです。
ここでも、彼ら技術者たちの優れた能力が発揮されています。灼熱のもとでの過酷な作業であるにも関わらず、スマトラ島の中部であらたな油田まで発見しているのです。この油田は、戦後にインドネシア最大のミナス油田として発展しています。
しかし、そうした彼ら石油技術者たちの奮闘も、有効に機能することはありませんでした。東南アジアから日本に運ばれるタンカーの護衛を、日本海軍はほとんどおこなっていなかったのです。
軍隊とは、上層部から受けた指令、すなわち敵と戦って油田を略奪することがすべてに優先されます。護衛のような、自分の評価に直結するとはいえない仕事をすすんでおこなう遺伝子は、軍隊には存在しておりません。
そうして石油が積まれた船は連合軍によりつぎつぎと集中爆撃を受け、終戦時にはタンカーのほとんどを失ってしまっていました。
大局的な戦略を立てるわけでもなく、自分たちの組織が非難されないことだけを考え、最前線の者たちを酷使しただけに終わっているのです。同じような悲劇は、現代の会社組織でも容易に起こりうる問題でしょう。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。