前回の「歴史に学ぶエネルギー」では、イランが国内の石油利権の50パーセントをとるコンソーシアム成立を見てきました。このようなナショナリズムの火が、アラブにも移っていきます。
1)アラブのあらたな英雄ナセル
のちのエジプト大統領となるガマール・ナセルはエジプト中流農家の家系出身で、郵便局長の息子として生まれます。読書に浸る内向的な少年として育ちますが、革命の英雄に憧れて誰かれかまわず反発する困った一面ももちあわせていました。
叔父の家から小学校へ通っていましたが、10歳で母親を亡くします。しかし、父はナセルを気遣って母の死をナセルに伝えませんでした。帰省したナセルが父に激しく怒ったのも無理はありません。もともと陽気な性格ではないナセルでしたが、母の死を引きずり、学校も何度も何度も落第しています。
やがてアラブ解放運動に本格的にのめり込み、政治的な学生デモにも参加し、母校の英雄的存在となります。保安隊と大規模に衝突した際、新聞にもナセルの名前が載りました。学校側はナセルを退学処分としますが、学生たちの反対運動で復学します。そのころから英雄となる資質が磨かれていたようです。
事件を重くみた父は叔父と相談し、ナセルを転校させます。すると一転して学業に専念しだし、大学入学資格を得たのです。
上流階級しか通れなかった陸軍士官学校が中流階級にも門戸が開放され、ナセルはこの難関校にみごと合格します。それまで落ちこぼれだったナセルでしたが、士官学校では水を得た魚のように頭角を現し、一年後には代表幹事となるのです。
軍隊で活躍していたナセルですが、反イギリス愛国を掲げる政治秘密結社へ入団します。そのころのナセルは、過激な「積極行動」を掲げていました。
国王の側近アメルの暗殺を実行した時のことです。実行部隊を送り届ける役目だったナセルは、去り際に家族の悲鳴を聞きます。悲鳴が耳から離れず罪悪感にさいなまされたナセルは、アメルに生きていて欲しいと願うようになります。翌日、暗殺は失敗だったことが判明しますが、この事件を境に暗殺ではなく革命を求めるようになったといいます。
やがて自由将校団はクーデターを起こし、ファルーク国王を追放するのです。王政を廃止し、共和制のナンバー2として中心メンバーの実権を握ったナセルですが、革命から2年後に大統領に就任します。
当時のアラブには、ナショナリズムの嵐が吹きはじめていました。ナセルは、農地改革をはじめとした産業や銀行の国有化をすすめ、アラブ社会主義政策を推進します。
2)アラブ・ナショナリズムの芽生え
こうした一連のエジプト・ナショナリズムにおいて、米国務長官ダレスはナセル大統領を危険人物とみなしていました。こうした国有化の流れを、ほかの中東諸国に飛び火させるわけにはいきません。
それまでエジプトの国家的事情であったアスワン・ダムの建設のための資金を提供してきたアメリカとイギリスですが、突然手を引いたのです。新しいアラブの指導者ナセルに対する当てつけであることは誰の目にも明らかでした。
これに対してナセルは、スエズ運河の国有化というドラスチックな手段で報復したのです。同時に運河も閉鎖されました。
この時、西ヨーロッパの石油備蓄は一か月分しかありませんでした。運河閉鎖はヨーロッパの生命線を断ち切るということが明らかになった瞬間だったのです。
すぐさまイギリス、フランス、イスラエルの連合軍がエジプトに攻め込むのですが、大義なき侵攻に対し世界中から非難の声があがります。さすがにソ連もアメリカも反対表明を出したため、連合軍は直ちに撤退することになりました。
スエズ動乱とは、アラブ諸国にとってナショナリズムの勝利であり、ガマール・ナセルは西側勢力にはじめて勝ったリーダーになったのです。アスワン・ダムの建設やスエズ運河の国有化を実行したこの頃は、ナセルに対する国民からの熱狂的な支持が最高潮に達していた時期でもありました。
スエズ動乱からさかのぼること2年、イランのパーレビ国王は国内の石油利権の国有化を求めるも、外国勢力の介入で思いのままに操られ、コンソーシアムを受け入れざるを得なくなりました。
イランはアラブ民族ではありませんが、ペルシャ民族のイランの人々も新しいアラブの英雄ナセルに共鳴しました。そうした感情の表裏一体として、運河と石油の違いはあるにしても、ある種の屈辱感に襲われたのも、ごく自然なことだったでしょう。
パーレビは傷つけられた誇りのはけ口として、そうした不満を自国のコンソーシアムに向けはじめていました。そこに目をつけたのが、イタリアのエンリコ・マティです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。