これまでの「歴史に学ぶエネルギー」では、イギリスが独占していたイランの石油権益にアメリカが食い込んできた歴史を見てきました。じつは、その裏で人知れず起きていた事件が、のちのOPEC結成につながっていきます。
1)セブンシスターズの闇
イランの石油コンソーシアムにアメリカが参加した時、イタリアENI会長エンリコ・マティの怒りは頂点に達しました。メジャーがイラン産石油を禁輸した際に、自らの利益を投げ出してボイコットを助けた自分は無視され、あとからノコノコでてきた外国企業たちには参加権が与えられたからです。
この時からマティは、あらゆる手段をつかってメジャーに挑戦することになります。
一方のメジャーは、マティを甘く見過ぎていました。マティは石油のソース(油田)をもっていない an oilman without oil だったからです。しかし、このマティこそオイルマンらしい勇猛果敢さを有し、戦略や政略を駆使しながら世界中を翻弄させる真のオイルマンでした。
イタリアのマルケ州で生まれたマティは、24歳になるとミラノに移り、反政府組織レジスタンスに参加します。
当時、イタリアには国営石油会社AGIPがありましたが、独裁者ムッソリーニ時代の遺物の会社でした。そこで、マティがその解体のために派遣されました。しかし、マティは命令に反してAGIPの再建に努め、イタリアでもっとも影響力のある組織に育てあげたのです。
1953年、イタリア国営石油会社ENIの設立が議会で承認されました。これによりAGIPはENIに吸収され、マティはENI会長の座につきます。マティはよく子猫のたとえ話をしました。
「大きな犬が容器の餌を食べているところへ小さな猫がきた。容器の中には石油がある。だが、犬どもは子猫を襲い近づけさせない」
この寓話はイタリア貧困層の絶大な支持のもととなりました。マティの活躍で伊ENIは世界を股にかける屈指の大企業に成長しました。
しかし、マティの最期は壮絶なものでした。不慮の飛行機事故にあうのですが、事故の原因はいまだ闇に包まれたままなのです。
彼の乗った自家用機はシチリアからミラノへ向かおうと離陸します。メジャーから休戦協定を打診され、その合意のためにアメリカへ訪問する途中でした。そのマティの乗った飛行機が、ロンバルディア州で墜落するのです。乗員3名の全員が死亡しました。
公式には嵐による墜落事故と発表されたのですが、暗殺の噂がいまだに絶えません。なんらかの爆発によって変形した金属破片が彼らの骨の中から発見されたからです。これが事実ならば、飛行中に先に爆破装置が働いたと考えられます。
セブンシスターズによるマティ暗殺説がささやかれる理由には、これから述べる事件が大きく関わっています。
2)OPEC結成の直接の引き金
アラブ諸国で熱狂的に支持されはじめたナショナリズムの流れを、マティは最大限に活用します。
マティはイランの鉱区に対して、フル・パートナーシップを提案します。それも、イラン75パーセントに対してイタリア25パーセントです。イランにとって、これ以上ない条件です。イラン議会は、マティとの契約を正式に批准しました。
実際は、この鉱区にはそれほど石油がなかったため、マティの実利は小さかったといいます。しかしマティの結んだ契約は、これからの中東の利権契約の基準となったのです。マティがイランにつけた火は中東全体に広がっていくことになりました。
マティの復讐劇は、まだ終わりません。つぎにマティは信じられない行動をとります。
モスクワに飛び、フルシチョフ首相と直接会うのです。そしてウラル産の石油売買の契約にこぎつけました。東西冷戦の時代にマティがソ連と手を組んだ事実は、西側諸国にとってまさに晴天の霹靂でした。
1959年、ソ連産の石油が大量にイタリアへ流れはじめます。しかも市価より遥かに安い金額で。かつてスタンダードが競争相手を蹴落とした価格戦争と同じことを、マティが仕掛けたのです。
ここで、苦しくなったメジャーは決定的なミスを犯してしまいます。ポステッド・プライス(産油国から出荷される際のFOB価格)を引き下げたのです。これによって、産油国へわたるはずの取り分も自動的に引きさげられることになります。
メジャーは最悪の手段を選択してしまいました。
引きさげが実施された一か月後の1960年8月、産油国の代表はバクダッドに集結します。世界最強といわれたカルテル、OPECの結成に踏み切るのです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。