前回の「歴史に学ぶエネルギー」では、OPEC結成にいたる背景として、直接影響した事件についてみてきました。今回は、その内情に迫ります。
1)強烈な反米感情の持ち主
OPECの結成には、あるひとりの人物が大きく関わっています。その人物の名は、アブドゥラー・タリキ。
当時、サウジアラビアの石油省局長だったタリキは、徹底した反米主義者でした。カイロ大学で学んだあと渡米し、テキサス大学で地質学のマスターを修了しています。米メジャーのテキサコ勤務を経て、サウジではアラムコで働きはじめました。タリキは、テキサス大学で知り合った東欧系アメリカ人と結婚もしています。
アメリカ文化に慣れ親しんできたはずのタリキが、なぜ反米主義者となっているのでしょうか。
反米主義になった要因には諸説ありますが、激しい人種差別に苦しんだ、ということが最大の理由かもしれません。当時の米テキサスといえば、徹底した人種差別政策が公然とおこなわれていたからです。
以前のコラム『13.ジャームズ・ディーンと石油』でも述べましたが、当時はジム・クロウ法という悪法がありました。黒人の公共施設の利用が、厳しく禁止制限されていたのです。
バスや電車は、待合場から券売り場、そして車両まで白人と黒人は分けられていました。レストランや病院も、子供の通う学校までもが別。南部の州では、結婚どころか交際まで禁止されており、もし異人種間の結婚を奨励したとすれば、平等扇動罪として警察にしょっぴかれるのです。
今では信じられない内容の法律ですが、驚くべきことに、こうした悪法がアメリカでは1964年まで存在していました。
当時のテキサスで、アラブ人が白人のガールフレンドを連れ歩くなんて、殺されなかっただけでも幸運だったことでしょう。
もちろん、街なかだけでなくテキサコでもアラムコでも、企業内も完全なアメリカ人社会です。タリキ夫妻がパーティに招かれることは、一度もありませんでした。やがてタリキ夫人は心を病み、夫婦関係もうまくいかず離縁しています。
タリキの強烈な反米感情は、こうした個人的な理由があることは当然のことながらも、セブンシスターズによる搾取を目の当たりにしてきたことも大いに影響しているのでしょう。
余談ですが、タリキからある日本人にアプローチしたことがあります。
打診先は、アラビア石油の創立者である山下太郎でした。彼らふたりの協議の結果、アラビア石油が日本で唯一サウジアラビアの石油利権を獲得することになるのです。
山下は「アラビア太郎」というあだ名のほかに「山師太郎」とも呼ばれていました。山師のような冒険者だという意味ですが、彼は欧米メジャーたちから日本人で唯一、世界に伍するオイルマンとの人物評を得ています。
あれほど強烈な反米感情をもつタリキの信頼を得たわけですから、さすがの山師太郎と言わざるをえません。
2)ある男を研究し続けたタリキ
タリキは、ある男の一挙手一投足を追い、その男の行動をつねに分析していました。その男とは、イタリアの雄エンリコ・マティのことです。
このころ、ベネズエラがメジャーとの対等ディールに成功します。世界初となるフィフティ・フィフティ(50対50)の契約の成功です。つぎに、国内石油利権の完全国有化を目論んだイランのパーレビ国王ですが、アメリカの介入によりコンソーシアムの設立というメジャーとの共同経営に終わります。しかし、エジプトの英雄ナセルはスエズ運河の完全国有化に成功し、西側諸国にはじめて勝ったアラブとなりました。
そうしたアラブ・ナショナリズムの裏で、マティが動きはじめます。マティはイランとのフル・パートナーシップの契約締結を成功させると、今度はソ連のフルシチョフに直談判して安い石油をヨーロッパへ送りはじめるのです。
反米主義のタリキにとって、またとないお手本。それがマティでした。
アメリカに対し猛然と立ちむかったタリキですが、ほかの国と共同戦線を張る戦略へと土俵を移します。ベネズエラ代表のペレス・アルフォンゾと接触し、彼との二人三脚でOPEC結成の原動力となっていきました。
やがて共同歩調を選択する国は増えていき、はじめ5か国ではじまったOPECは互いに単独行動をとらず、一丸となってメジャーと交渉することを誓いあうのです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。