「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。OPECが結成されたものの、百戦錬磨のメジャーたちの相手にすらなりません。ここで出てきたリビアのカダフィが、すべてをひっくり返します。メジャーを1社ずつ呼びつけて、個別交渉するのです。メジャーがOPECに対してとっていた交渉術が、今度はメジャーたちにつかわれたのです。
1)OPECの結束
カダフィに対するオクシデンタルの降伏から年が明けた1971年、OPECとメジャーの本格的な話しあいがテヘランではじまります。
OPEC結成の主導者であったサウジアラビア石油相アブドゥラー・タリキですが、じつは、その後のタリキはなぜかサウジから国外追放処分を受けています。理由はいまだ不明のままですが、独裁王国ならではの複雑なお家事情があったと推察されています。
タリキの後任として、32歳で石油大臣となったザキ・ヤマニは、
「ロイヤルティだけを吸いとる時代は終わった。産油国は石油権益にも参加しなければいけない」
と、産油国のパーティシペーション(権益参加)について説きはじめます。
カイロ大学で学び、サウジアラビア初の弁護士となったヤマニは、のちに
「石器時代が終わったのは、石がなくなったからではない」
と、技術革新の重要性を説いています。世界の情勢に卓見した人物でした。英語とフランス語にも堪能であり、大の時計マニアという一面ももっています。
ヤマニの号令でテヘランに集結したOPECメンバーは、自信に満ちあふれていました。OPECの結束の強さは固く、メジャーたちに対しエンバーゴ(禁輸)をちらつかせて、脅しをかけるまでに変貌したのです。
1859年に石油が発見されて以来、業界を悩ませてきたのはショーテージ(供給不足)ではなく、いつもグラット(供給過剰)の問題でした。ここにロックフェラーが一大トラストを形成できた素地があり、セブンシスターズが強力な価格カルテルを築かなければならぬ理由があったのです。業界は常にグラットに対して、神経質とも思えるほど気をつかっていました。
しかし、そうした状況も1970年になると急変します。前年まで伸びていたアメリカ国内の石油生産量が横ばいになり、翌年に下降しはじめたのです。一方で自動車社会が到来し、石油の需要が急速に伸びていきます。
ニクソン大統領は急きょ、輸入制限を緩める措置をとります。この時から、中東産の石油がアメリカに大量に流れはじめました。石油消費、石油生産ともにナンバーワンの地位にあったアメリカが、本格的な石油の輸入国になったのです。
同じ頃、ヨーロッパでも石油の在庫が異常なほど低下していました。産油諸国の生産量もつねに拡大し続けてきたのですが、サウジアラビア以外の産油国のさらなる増産は、すでに限界に達しつつありました。
2)オイルショックの到来
このような極限状態のなか、第四次中東戦争が勃発したのです。
1973年10月6日、突然エジプト軍がスエズ運河を横断し、シリアがゴラン高原への侵攻を開始しました。イスラエルに対するアラブ包囲網です。イスラエル軍は猛烈に抵抗し、全アラブを戦火の渦に巻き込んでいくのです。
この事件の二日後、OPECとメジャーの交渉がウィーンで開始されました。しかし、利害が正反対の交渉が成立するわけがありません。メジャーは水面下でも交渉を続けました。ヤマニが泊まるホテルにまで押しかけて、交渉の二週間延期を要請します。しかし、ヤマニはこれに応じようとしません。
OPEC諸国はウィーン交渉が決裂したあとクウェートに集まり、一方的な値上げを発表しました。同時に石油生産量の5パーセントカットと、イスラエルを支持するアメリカとオランダへのエンバーゴ(禁輸)に踏み切ったのです。
イスラエル対アラブという政治的な側面に石油を利用した、史上はじめての事件となりました。
その結果、1970年まで1バレルあたり2ドル前後で安定していた石油価格が、二回のオイルショックで30ドル以上へ急上昇したのです。
オイルショックとは、セブンシスターズによる世界覇権の終焉を意味していました。ダウンストリームを支配するセブンシスターズがアップストリームを支配するOPECの軍門にくだり、産油国が価格決定権を手中に収めるとともに、石油が政治武器として利用される一大転換期となったのです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。