「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。OPECが結成され、オイルショックが起こります。そのころの日本の状況をおさえておきましょう。
1)日本人に向いていた大量生産システム
1960年代、日本は空前の経済成長に沸いていました。
焦土と化した戦後の街から復興し、世界一の速さを誇る新幹線をつくり、東京オリンピックと大阪万博を成功させました。その背景には、外国から資源を安く買って加工して輸出することで付加価値を得る、という加工貿易がありました。
当時の1バレル2ドルという歴史的にみても驚異的に安い価格に抑えられてきた原油と、1ドル360円という円安は、工業製品の輸出に有利に働きました。しかし、この時代にいきなり輸出が増えたわけではありません。
じつは、日本の輸出収支が巨額の黒字に転じたのは1980年代です。1960年代の日本はまだまだ国民の生活の充実が最優先課題でした。
原油安を背景に、まずは重化学工業の興隆が推奨されました。所得倍増計画によって旺盛な国内需要が奮起され、まずは内需が拡大します。つかい捨てが奨励されるなか、大量生産によるスケールメリットが重視され、「垂直統合型」の企業連合が組織されました。
垂直統合型とは、自社が管理する組織内で上流から下流までの全ての工程をまかなう製造手法をいいます。そうした自己完結、大規模化によるスケールメリットが増大して国際競合力が強化され、結果として輸出が増えはじめたのです。これが、日本の1960年代の高度経済成長時代でした。
大量生産によってコストメリットをだすビジネスモデルとは、さまざまな工程を企業のなかに統合して組織を大規模化することです。この垂直統合型システムには集権化や組織化が必須となりますが、集団行動をとる村社会体質が染みついた日本社会にはスムーズに受け入れられました。
稲作で大量に利用する水資源を共同管理する村落共同体は、村八分にならないために阿吽の呼吸で行動する空気感を醸成してきました。このような集団行動をとる国民性は、世界的にもめずらしいといえるでしょう。
2)オイルショックを克服
このような状況下において、世界均衡が崩れる事件が勃発します。
民族主義に目覚めた中東諸国が欧米メジャーからの収奪を回避するために、石油輸出国機構OPECを結成するのです。その結果として原油価格は高騰し、オイルショックと呼ばれる事態に発展しました。
スーパーマーケットの店頭から、トイレットペーパーが姿を消しました。トイレットペーパーはエネルギーを大量消費してつくられるため、オイルショックにより製造できなくなるから、ということが買い占めされた理由でした。製造できなくなるというのはガセネタでしたが、エネルギーを大量消費するというところは本当です。
トイレットペーパーをつくるには、水に溶かした繊維質を漉いてシート状にして水分を抜き、乾燥させなければなりません。そこに大量の蒸気や電気がつかわれます。しかも、トイレットペーパーは消耗品です。低価格の過当競争に陥りやすく、少しでも安く製造できなければ市場から淘汰されてしまいます。
そこで、製造工程では連続的に、かつ大規模化して大量につくることによって、紙1枚当たりの製造原単位を極限にまで低減させる努力をしています。製紙工場では、大規模な抄紙機が超高速で回転されており、そこに多くの電気と蒸気が投入されています。
このように、製紙に限らず、金属・化学・食品などあらゆる製造工場で大規模化した大量生産システムが構築されていったのも、この時代です。
二度にわたるオイルショックにより、1バレル2ドル前後であった原油価格が30ドル超えにまで上昇します。これで日本の経済成長は終焉をむかえると予測されました。
しかし日本は、この緊急事態を徹底した省エネルギー技術の導入によって、克服するのです。原油価格の高騰は、当然のことながら、欧米の工業立国に対しても平等に作用しました。すると、日本の競争力は相対的に上がり、made in Japan の製品がますます世界の評価を集めることになりました。
もちろん、為替の影響も無視できません。1ドル360円の固定相場から徐々に円高へ動き、1985年のプラザ合意で変動相場へ移行するや、一気に円高へむかいます。本来、円高は輸出には不利になるはずなのですが、逆に原油の輸入価格の高騰が緩和されることにつながったため、エネルギー効率の向上に成功した生産技術との相乗効果によって、一時的に日本製品の競争力が相対的に増したのです。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。