「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。オイルショックを省エネルギーで克服した日本企業ですが、Japan as NO.1と評され世界の羨望の的となりました。そうした動きを一連の流れとしてみておきたいと思います。
1)高度経済成長の振り返り
ここで、日本の1960年代からバブル期までの高度経済成長期をまとめてみましょう。
1960年代を一言であらわすと、私見ではありますが、「内需拡大による経済成長時代」です。
トップ指導者として有名なのは、池田隼人首相とケネディ大統領。世界中がいけいけドンドンで成長するのにあわせて、日本も欧米に追いつけ追いこせ精神で大量生産の仕組みづくりを優先させました。煙突の数が経済発展を象徴しているとまで言われたように、公害などの環境問題よりも大量生産が優先。つかい捨てが奨励されてゴミが溢れるようになっても、大量生産が優先。モノが充足されていない時代、モノをつくれば売れました。
モノをいかに安く生産できるかが問われ、垂直統合型システムを構築できた企業がますます成長していく。そのような時代でした。
1970年代は、「オイルショックのインフレ時代」です。
おもな指導者は、田中角栄首相とニクソン大統領です。角栄政権は、日本列島改造をインフレ時に断行しました。これは糖尿病患者が大喰らいしたようなもので、インフレがさらに促進されることになりました。
そうした状況下で日本は護送船団方式を選択し、オイルショックによる原油高やニクソンショックによる円高を、日本国一丸となって克服します。護送船団方式は大銀行による融資拡大にもつながり、大規模化した企業系列が形成され、内需から輸出拡大へつながる基盤が固められました。
1980年代、それは「トリプルメリットによるバブル時代」といえるでしょう。
円高、原油高、金利安のすべてが日本の輸出力増強に有効に働きました。工業立国に対して、金利安以外の条件がメリットとして働くことは本来ありえないのですが、この時代の背景として日本にとっては一時的にメリットになりました。
オイルショックを世界屈指の省エネ技術で克服した日本ですが、原油価格が落ちつきを取りもどしたのを機に、日本は輸出を拡大させました。急激な対日貿易赤字の増大に驚いたアメリカは、プラザ合意を日本政府に呑ませます。そのことで急激なドル安円高となりましたが、結果として日本はアメリカに対して相対的な資源安のメリットを享受することになりました。
円高とは輸出に不利な条件になりますが、資源安による国際競争力が増した影響がマイナス面を一時的に上回り、10兆円を優に超える貿易収支の黒字が実現したのです。
2)日本企業の成功と慢心
当時の日本企業は、本当に強かった。ウォークマンのような革新的な製品をつぎつぎと生みだしていました。革新的な製品は、多少の円高などものともしない強さを秘めています。そうして海外市場における日本製品のシェアをますます拡大させていったのです。
ウォークマンの発明には、日本人特有の性質も影響していたのではないでしょうか。山と川の多い国土をもつ日本では馬車が発達せず、日本国中を歩いて旅する文化がはぐくまれていきました。携帯して持ち歩くために扇子や風呂敷など、なんでもコンパクトに折りたたみました。そうした日本人特有の気質がウォークマンやコンパクトな乗用車、折りたたみ携帯電話などを生みだします。
詳しくは、韓国初代文化相の李御寧(イ・オリョン)氏の著書『「縮み」志向の日本人』(2007年、講談社学術文庫)をご覧ください。隣国出身者の鋭い視点で日本人の性質を読み解いています。
丁寧なモノづくりも、細部にまでこだわる職人気質から生まれました。日本人には、キチンと細工していなければ「不細工(ぶさいく)」といって卑下する性質があるからです。
こうしたモノづくりへの不断の努力が日本の製造業の躍進に寄与したのですが、反面、高品質への過剰なこだわりが家電や半導体などの世界シェアをのちに落とすことにつながり、ガラパゴス化と揶揄されるようになります。
一方、当時の世界は激動の渦のなかにありました。ゴルバチョフのペレストロイカにはじまる共産圏改革のうねりが広がり、ベルリンの壁崩壊へとつながっていきます。東欧圏の市場がいっせいに解放されたともいえるでしょう。
中国をはじめとして、東南アジアの国も発展しはじめていました。人口も増え、人々の生活レベルもますます高くなっていきます。そうはいっても日本と比較すると、まだまだ生活レベルは低く、安かろう悪かろうの製品であっても、とにかくモノを充足させることがすべてに優先していました。日本の1960年代と同じ状況です。
しかし、日本は従来からの成功体験を継続させることに、こだわり続けます。日本国内では1980年代になって生活レベルが格段に向上し、ますます高機能に、つまり、ますます高価格な製品が販売の中心となっていました。同じことを新しい市場に対しても押しつけようとしたのです。明らかに、慢心の現れでした。
バブルのあとに続く平成は「失われた時代」と評されています。膨張するあらたな世界市場に対し、日本企業がそれまでの成功体験を継続したところに端を発しているのですが、イノベーションを「技術革新」と誤解したところにも要因のひとつがあるのではないでしょうか。イノベーションがもつ本質的な意味については、別の機会で考察したいと思います。
また、現在のアメリカがおかれている状況は、プラザ合意直前の状態に似かよっているとの指摘も一部ではあります。そういった視点で過去を振り返ることは、意義ある考察につながるでしょう。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。次回をお楽しみに。