こんにちは。エネルギー・文化研究所 小西久美子です。
私は人口減少時代の都市計画やまちづくりのあり方について研究しています。成長拡大を前提として作られた都市計画の変遷(歴史)を掘り下げることで、縮小均衡時代のこれからのまちづくりに活かしていくべきものは何かを考えています。
今回は大阪の中心、船場の町の形成と現在にも生きる名残りを見てみたいと思います。
現在の船場(せんば)は、大阪市中央区の北は土佐堀川、東は東横堀川、南は旧長堀川(現長堀通)、西は旧西横堀川(現阪神高速道路)に囲まれた南北2.1km、東西1.1kmの約230haの区域をいいます。豊臣秀吉が大阪城築の拡張と城壁を新築する際に、市中住民の移転のために、計画的な街区建設により生まれた「新市街地」で、当初は、北は平野町、西は心斎橋筋、南は博労町までの範囲と考えられています。同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が整備されました。これは「太閤下水」と呼ばれるもので、背割(町境)にあるものは「背割下水」とも呼ばれます。船場で見られる細い路地はその名残ですが、改良しながら現在でも下水道として使用されているところもあると言うのは驚きです。
その後、徳川幕府による大阪城の復興と併せて市街地の拡張が図られ、船場の西側は木津川沿岸まで、南は道頓堀沿岸まで開発され、町人の町としての大阪(大坂)の市街地が成立しました。
船場では、町家が主に表を向ける東西を「通り」と呼び、表を向けない南北を「筋」と呼びました。そして、通りをはさんで立ち並ぶ町家が「両側町」を構成し、これが町の基本単位となっています。例えば、平野町は平野町通をはさんだ北側と南側の両方が平野町です。
(この町の境目に作られたのが先述の背割下水になります。)
現在では、御堂筋を始めとする南北の「筋」がメインとなっていますが、元々は、大阪城に向かう東西の「通り」が主軸で、金融・薬・繊維・輸入雑貨など、通りごとに特色ある多くの問屋が繁栄しました。今でも御堂筋を北から南に歩いていくと、通りごとに町の雰囲気が変わり、その名残を感じることができます。
私の所属するエネルギー・文化研究所は、船場の中、大阪ガスビル内にあります。
大阪ガスの本社ビルとして、昭和5年(1930年)に着工、昭和8年(1933年)に竣工した「大阪瓦斯ビルヂング(通称:ガスビル)」は安井武雄の代表作で「名建築」と称されることも多い建物ですが、安井武雄が設計したのは実は南半分(南館)だけです。
今、御堂筋に面して建っているガスビルは佐野正一(安井武雄の義理の子息)の設計で昭和41年(1966年)に増築された「北館」と合わせたものになります。北館の竣工によって、ガスビルは、北は道修町通り、南は平野町通り、東は御堂筋、西は御霊筋に接した一区画を占めることになりました。南館建設当初に描いていた「ワンブロック・ワンビルディング」構想が、35年以上を経て実現したのです。
ガスビル(南館)は平成15年(2003年)3月に国の有形登録文化財に登録されていましたが、ガスビル(北館)も令和6年(2024年)3月に国の有形登録文化財に登録されました。文化庁の国指定文化財等のデーターベース(WEB)では「大胆に変更した柱割が新旧の区別と全体の調和を生み、各階庇の連続や同種外装材を用いて端正な南館の意匠を継承する。御堂筋の象徴的なオフィスビル。」と説明されています。
興味深いのは北館の所在地です。ガスビルの住所は「大阪市中央区平野町四丁目」ですが、ガスビル(北館)の所在地は「大阪市中央区道修町四丁目等」となっています。改めて、北館増築時の資料を調べてみると、建築地は「大阪市東区(現在の中央区)道修町」となっています。道修町通りに面した北館の敷地は船場の町割では道修町になるわけです。しかし、北館竣工時の資料では建築位置は「大阪市東区平野町」となっています。名実ともにワンブロック・ワンビルディングが完成したのです。
豊臣時代の壮大な構想のもと街区整備が始まり、徳川幕府のもとで形成された都市空間が生き続ける船場で、35年以上掛けて理想の本社ビルが実現したと言うのも感慨深いですね。