「歴史に学ぶエネルギー」をシリーズで考えています。アメリカ産原油WTIの先物取引をきっかけとして2008年に史上最高値1バレル147ドルを記録した石油価格。資源高騰はロシアを復活させるとともに、従来の資源地図を塗り変えることになりました。
1)資源高騰によるロシアの復活劇
先物取引の電子決済化によってもたらされた石油価格の異常な高騰は、世界の資金の流れを根底から変えました。
世界の石油貿易量は、2021年で日量平均6,839万バレルとなっています(※1)。すなわち、1バレル80ドルなら輸入国から輸出国へ一日あたり約55億ドル、年間で2兆ドルが移動する計算になります。仮に1ドル100円とすれば、日本円で200兆円です。石油の貿易量も石油価格も為替もつねに変動しますが、石油をはじめとするエネルギー取引によって、多額の資金が国家間で移動しています。
1991年にソビエト連邦は解体されましたが、その後もロシア経済が好転する見通しはありませんでした。そこに登場したのが、ウラジーミル・プーチンでした。
彼はサンクトペテルブルク市役所職員だった1997年に、「ロシア経済の発展戦略における鉱物資源」と題した論文をサンクトペテルブルク鉱山大学に提出しています。そこには、国内に豊富にある資源、特に石油や天然ガスの輸出を戦略的に拡大させることで経済発展を促し、ロシアを超大国へ返り咲かせる手法が説かれていました(※2)。
石油の歴史的高騰が始まると、大統領になったプーチンはヨーロッパへの資源輸出を拡大する政策を実行に移します。特に天然ガスのパイプライン網を拡充させ、ヤマル半島のガス田からヨーロッパへの供給量を拡大させました。さらには、ソ連解体時に急速に成長したオリガルヒ(新興財閥)たちを収賄罪で逮捕するなどの行政行為によって彼らの影響力を抑えつつ、石油産業の国有化を進めました。
ソ連が解体された当時、資源輸出はロシアが得る外貨の半分近くを占めていました。当時のゴルバチョフ大統領は、工業製品輸出を中心とした貿易構造への転換を図りましたが(※3)、結果として経済的状況の好転には至らなかったようです。エネルギー資源の輸出に依存し、その重要性を理解していながらも、戦略的に活用するという発想が希薄だったのかもしれません。
ロシアの復活劇は、プーチンの政策もさることながら、石油価格の高騰という時代の運も重なって実現したともいえるでしょう。こうして、新政ロシアは経済大国の仲間入りをします。
2002年6月末、カナディアン・ロッキー山脈のすばらしい山岳景色を背景にプーチン大統領が笑顔を見せている光景がTVニュースの映像に流れました。カナダの保養地カナナスキスでG8が開催されていた時のことです。このサミットで、これまで準メンバー的存在でしかなかったロシアが、名実ともにほかの7カ国と同等の扱いを受ける決定が採択されたのです。2006年には、ロシアが議長としてモスクワでG8を開催することも決まりました。
ロシアの正規メンバー化は、テロ対策を進めているアメリカのブッシュ政権をはじめとした西側諸国にとっても、平和を実現させるうえで重要な政策だったことでしょう。また、ドイツのシュレーダー首相とプーチン大統領は、当時から親密な関係にありました。このふたりの関係が、のちのドイツのエネルギー政策に大きな転換をもたらしますが、ここではまだ先のお話しです。
同2006年7月3日、翌日を米国独立記念日にひかえ大規模テロに警戒している頃、ヒューストン郊外の港に1隻の大型タンカーが錨をおろしました。積載されていたのは、ロシアから輸出された石油20万トンです。単発の取引とはいえ、ロシアからアメリカへ石油が直接出荷されたのです(※4)。
石油価格の高騰などによって、ソ連崩壊時にマイナス成長だったロシア経済は成長路線に転じ、2008年までは平均7%の成長率を記録。長年ロシアを縛り付けていた借金の返済も実現しました。IMFへの33億ドルの債務を返済し、翌年にはパリ・クラブへの225億ドルの債務も完済しています。ロシア経済は、ソ連崩壊からわずか8年で完全に蘇ったのです(※5)。
2)塗り替わる資源地図
思えば、皮肉なものです。オイルショックによる石油価格の上昇を遠因にソ連の衛星国が力をつけ、ほかのさまざまな要因とも重なって、ソ連の崩壊へとつながりました。ところが今度は、石油価格の異常なまでの高騰がロシアの復活につながったのです。このように、世界情勢の裏で、資源は大きな役割を果たしているのです。
石油価格の高騰は、中東産油国の経済も復活させました。
世界最大の産油国でありサウジアラビアは、石油収入で潤っているイメージが強くありますが、じつは政府の収支は2002年まで赤字でした。国家政策として取り組んでいたスウィング・プロデューサ政策のつけが重くのしかかっていたのです。
スウィング・プロデューサとは、石油価格が高騰した時はサウジが石油生産量を削減し、急落した時はサウジが石油生産量を増やす、というサウジ独自の政策をいいます。1962年から1986年までサウジ石油相を務めたザキ・ヤマニは、石油価格の国際的な安定こそが重要だと考え、敢えて自らを犠牲にする政策を実行していたのです。サウジは日量約 1,100万バレル近くの生産能力を有していますが、1985年には 200万バレル近くまで生産量を落して石油価格を下支えしました。石油価格が低い時に過度な減産をしたわけですから、サウジ経済は大きなダメージを受けました(※6)。
そのことで、所得税もなく医療や教育は無料、公共料金もタダ同然という「国家まるかかえ」システムに黄信号が灯り始めます。当時はサウド家の王子たちも増え続け、国家予算で豪華に暮らす王族の数も何万人と膨れあがっていました。そうした赤字たれ流し国家予算だったため、1986年にサウジがスウィング・プロデューサ政策を放棄してからも赤字財政は続きました。ところが、2000年頃から徐々に石油価格が高騰を始めたのを機に2003年には経済収支が黒字化、ついに2008年に100億ドルの黒字を叩き出すのです。同時に、対外債務も完全になくなりました(※7)。
アラブ首長国連邦をはじめとする中東諸国でも、石油価格の高騰によって低所得者の生活水準があがりました。今ではエアコンなしの生活には戻れなくなっています。また、海水の淡水化にも多大な電力を使っています。貴重な淡水は飲料用だけではありません。砂漠の地にプールや屋内スキー場まで設けているのです。
そしてドバイをはじめとした都市に投資が集まり、近代化が進んでいきます。
石油による利益がいつまでも高い状態で続かないことは、それまでの歴史が証明しています。石油価格の高騰は、あらたな油田開発への新規投資を誘発し、資源開発競争の過熱は石油価格の暴落へとつながっていくのです。
そのことへの警戒感から、産油国は動きを変えてきています。サウジ一国の政策に任せるのではなく、OPECの加盟国を拡大させ、加盟国全体で協調減産に合意するなど、ふたたび団結を図るようになります。しかし、複雑化した石油市場では、オイルショック時代のようにOPECの力だけで世界を牛耳ることは難しくなっていました。
このコラムでは、エネルギーに関するさまざまなトリビア情報を、シリーズでお伝えしたいと考えています。また、全編に共通した参考文献は初回に提示しておりますので、適宜ご参照ください。次回をお楽しみに。
(※1)資源エネルギー庁発行「エネルギー白書2023 第2節1(1)④石油貿易の動向」を参照
(※2)(公益社団法人日本国際問題研究所『国際問題』NO.580 P.16「ロシア外交政策の基調と展開」横手慎二著)を参照
(※3)(資源企画庁『昭和63年世界経済白書』第3章第5節1(1))を参照
(※4)当時のロシアのエネルギー情勢は、独立行政法人エネルギー・資源鉱物資源機構『石油・天然ガスレビュー』2003-1-30「復活した石油大国ロシアとその背景にあるもの」木村眞澄著をご参照ください。
(※5)内閣府『世界経済の潮流 2010年?』第2章第2節2を参照
(※6)公益財団法人日本国際問題研究所2020-12-4研究レポート『サウジアラビア経済を取り巻く環境』中西俊裕著を参照
(※7)IMF-WORLD ECONOMIC OUTLOOK DATEBASESを参照