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2024年12月26日 by 山納 洋

【シリーズ】街角をゆく Vol.14 深江(神戸市東灘区)



こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。

僕は2014年から「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けてきました。

その目的は「まちのリサーチ」です。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。

この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。

 

神戸市東灘区深江。神戸市の南東側にあたる場所です。駅でいうと阪神深江駅の南側にあたります。

深江はかつては漁村でしたが、埋め立てにより50年以上前に漁村としての歴史を終えています。埋立地には食品コンビナートが造られましたが、そのことで深江は現在、多くの外国人が働き暮らすまちになっています。

 
深江は戦国時代には農民が結束してできた郷村(ごうそん)でした。桃山時代には豊臣家の直轄領となり、江戸時代には尼崎藩に組み入れられました。菜種や綿の生産が行われ、17世紀末には酒造業も興り、19世紀にかけて盛んになりました。徳川幕府は明和6年(1769)に上知令(あげちれい)を出し、このあたりの村々を天領としています。明治政府成立後には兵庫県に編入されています。

深江村は明治22年(1889)に西隣の青木村・西青木村と合併して本庄村となり、昭和25年(1950)には本庄村は神戸市東灘区に合併され、その後は阪神間の住宅地として発展しました。平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けましたが、その後多くのマンションが建ちました。都心部へのアクセスの良さなどもあり、他市・他区からの転入が続いています。

 

阪神深江駅の南にある大日霊女(おおひるめ)神社の前に、「魚屋道(ととやみち)」と書かれた石碑があります。この道は江戸時代、深江浜で獲った魚を有馬温泉へ運ぶために使われていた山越えのルートでした。天秤棒で魚を担いで標高931mの六甲最高峰のそばをかすめて、有馬温泉まで下っていたのです。江戸時代には有馬に行くのに西宮・宝塚の宿駅を迂回する必要がありましたが、このルートが使われたことで、しばしば宿駅と騒動にもなったそうです。この道は現在も六甲山の登山ルートとして知られています。


「魚屋道(ととやみち)」の石碑


深江浜ではかつて、地引き網漁や船を使った打瀬網(うたせあみ)漁が盛んに行われました。獲っていたのはイワシやエビで、季節によってアナゴ・カレイ・タコなども獲れたそうです。イワシは浜にある加工場で釜ゆでにされ、加工場付近の砂浜や堤防の上などにセイロのまま並べられて干されていたそうです。

昭和40年代になると、東神戸一帯の浜の埋め立てが始まり、昭和47年の漁協解散をもって深江の漁業は幕を閉じています。この地にあり、豊漁祈願と漁師の守護神として信仰が厚かったえびす神社の御神霊はその後大日霊女神社に合祀され、社殿は撤去されています。


深江浜でのイワシ干し風景(写真提供:神戸深江生活文化史料館)


東灘区深江南町に行くと、かつてのえびす神社跡を示す碑が残されています。そのすぐ近くには「岩本氷店」という小さな氷店があります。かつては仲買人が鮮魚を運ぶのにここで氷を買っていたそうです。すぐ前には加工場が4ヶ所あり、近くには魚市場があり、競りが行われていたとご主人に伺いました。


えびす神社跡を示す碑


大日霊女神社の隣には、神戸深江生活文化史料館があります。こちらの史料館では、地域の方々から寄贈された食器・衣料・年中行事用具・農漁具などを展示するとともに、地域の生活文化史の研究と情報発信を続けておられます。

この史料館は「深江財産区」によって運営されています。神戸市でも東灘区でもない、というのがポイントです。


神戸深江生活文化史料館


財産区とは、山林やため池など、かつて(多くは江戸時代から)の村の共有財産(入会地など)を管理する行政組織です。全国に4千ほどあります。神戸市には150余り存在し、特に東灘区には旧村ごとに財産区が存在しています。

本庄村が1950年(昭和25年)に神戸市に編入された時に、深江では村有財産の一部を独自に管理・運営するために財産区を設置しています。そして史料館は昭和56年(1981)、かつての深江村の史誌をまとめる中で収集された資料を保存・展示するとともに、地域の歴史を研究し、成果を発信するため、昭和56年(1981)に深江財産区によって設立されています。史料館の隣にある深江会館も同じく財産区が保有・運営しており、地域文化活動の拠点として活用されています。

つまり、江戸時代からの村の財産を継ぐ存在である財産区が、村の歴史を語り継いでおられるのです。


神戸深江生活文化史料館に展示されている、深江の漁業にまつわる史料


東神戸一帯の浜の埋め立てにより、沖合には4つの埋立地ができました。深江浜の先にできた「第4工区」(深江浜町)には、食品工場を中心としたコンビナートが設置されました。

平成2年(1990)の入管法(出入国管理及び難民認定法)改正により、日系外国人の就労が認められましたが、そのことでブラジルやペルーを中心とした南米の日系人が、ここの食品工場で働くようになりました。国道43号線の南側には現在、ブラジルの食材店や外国人向けの家電リサイクル店、人材派遣会社が営まれています。以前はペルー料理店や、スペイン語・ポルトガル語圏の人たちが集まる飲食店がありました。

神戸東部第4工区食品コンビナートの案内看板


そのすぐ近くには「多文化共生センターひょうご」があります。ここでは外国人向けの生活相談や日本語教室を行っています。代表の北村広美さんによると、近年は南米からの日系人の数は少なくなり、技能実習生でやって来るベトナムの人や、ネパール、バングラデシュ、ミャンマーからの人たちが増えているそうです。日本にやって来た外国人が抱える課題はまず言葉の壁ですが、生活面での課題は国によって異なるそうです。


多文化共生センターひょうごの看板


ネパールの人たちが抱えるのは、子どもの教育問題。兵庫県にはネパール語ができるサポーターが足りず、日本語が話せない状態でやって来た子どもたちは、学校の勉強についていくのが大変なのだそうです。ベトナムの人たちは単身者が多く、日本のコミュニティとの接点がないそうです。そのためどんな問題を抱えているのかを把握するのがまず難しいそうですが、中には職場になじめず仕事を辞め、不法就労や闇バイトに手を染める人も出てきているそうです。また30年前に日本に来た南米系の日系人たちは高齢化しており、認知症や介護の問題が始まっているのだと。

 

「多文化共生センターひょうご」では月に1回、「配布会とおトクな情報」というイベントを開催しています。食料を配りながら情報提供をしたり相談を聞いたりすることで、生活相談や日本語教室だけではつながらない人たちとの接点を作っているそうです。12/11(水)には、「外国人にも広がる詐欺被害」(仮)をテーマに、兵庫県警の方を招いて情報提供をされるそうです。


多文化共生センターひょうごが主催する「配布会とおトクな情報」



阪神深江駅の南東側、現在の深江南町1丁目から2丁目にかけて、「深江文化村」と呼ばれる、洋館13棟が集まった居住区がありました。開発されたのは大正13年(1924)のことです。住民は日本人のほか、英米、ドイツ、オランダ人に加えて、大正6年(1917)年に起きたロシア革命から逃れて日本に亡命したロシア人やウクライナ人がいました。亡命ロシア人、ウクライナ人には著名な音楽家がいたため、日本の音楽家たちとも文化的交流が生まれていたそうです。現在では1軒の家だけが残されています。

 

このように、あまり知られてはいませんが、深江のまちからは、かつての漁業と外国の人たちにまつわる興味深いストーリーを知ることができるのです。


深江文化村に1軒だけ残されている洋館「冨永邸」


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