菅谷 富夫
2007年03月30日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2007年03月30日 |
菅谷 富夫 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.80) |
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モノを生産し流通させることで成立した街・大阪は、そのための宣伝活動も自ずと活発であった。工業生産高や貿易高がひとつのピークをむかえた「大大阪」の時代、それは同時に宣伝の時代、デザインの時代でもあった。多様な産業は多くのユニークなデザイナーを生み、彼等の活動は商品の宣伝として経済に寄与したばかりでなく、優れた街の中の芸術としてモダン都市大阪を彩ったのであった。やがてその活動は日本全体のデザインをもリードしていった。
大阪は商業都市、工業都市として発展してきた。その歴史は江戸時代より始まっているが、二〇世紀になりその形態は急速に近代化していった。官による砲兵工廠や大阪港から広がる繊維工場群や鉄工所群。船場の繊維問屋に代表される各種卸問屋街。モノづくりとそれを扱う販売網を発達させた都市には、デザインという機能が活躍する場が溢れていたと考えられる。よきモノ、売れるモノをつくるためにはプロダクツ・デザインが、それを消費者に売り込むための宣伝媒体にはグラフィック・デザインが発達したのはいうまでもない。
二〇世紀初め、大阪の近代化=大大阪の成立は、このグラフィック・デザインの近代化にも大きく影響を及ぼした。直接にはその担い手であるデザイナーの養成に市が乗り出したことである。新たな開発地域であった阿倍野・文の里に設立された大阪市立工芸学校である。
この旧制中学に相当する「専門」学校には木工科、金工科と並んで図案科が設置され、それまで印刷業者が抱える画工たちが担っていたデザインという職能を代わりに担う近代的な意味でのデザイナー(当時はコピーライター/文案家に対して図案家と呼ばれた)が養成されていった。この学校からは、当時はもちろん、戦後一九五〇年代以降の日本デザイン界をリードする人材を多数輩出することになる。