安達 純
1999年12月31日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
カテゴリー |
媒体(Vol.) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
1999年12月31日 |
安達 純 |
住まい・生活 |
その他 |
情報誌CEL (Vol.51) |
今年の7 月に自死した文学者、文芸評論家の江藤淳氏の中期の作品に「夜の紅茶」と題する短い随筆がある。
「私は、夕食のあとでひと眠りしてから、紅茶を飲むのが好きである」という文章で始まるこの随筆には、江藤氏のある一面が色濃く出ている。
夕食の前にはウィスキーの水割りを1 、2 杯飲む。満腹して眠気をもよおして来ると、寝椅子に横になり、レコードを聴きながら1 時間ほどぐっすり眠る。どんな眠りが愉しいといって、この眠りほど愉しいものはない。昼間の時間がどこかに消えてしまい、それと同時に、わずらわしい社会生活も千里の彼方に遠ざかってしまう。眼を覚ますと、2 、3 分寝椅子の上でぐずぐずしてから、シャワーをあびるか顔を洗うかする。そして、おもむろに夜の紅茶を飲む。紅茶の香りを味わっているうちに、眠気が少しずつ消え、頭が明瞭になりはじめ、やっと自分の時間がやって来たという、充ち足りた気分になって来る。なおも紅茶を味わい、その香りを愉しむ。すると、いつの間にか、現在をさまよい出て、過ぎ去った日のことを考えたりしている。
「夜の紅茶」には、ざっとこんな世界が描かれている。
しかし、江藤氏にはそれとは1 8 0 度ベクトルの違う、もうひとつの側面がある。国家や社会を真正面から論じた数多くの著作は、むしろ、「わずらわしい社会生活」に耐え、敢然とそれに立ち向かうことこそ人の務めである、という強い意志の下に書かれたものである。後者は江藤氏にとって、言わば「公」の領域に属し、その一方、「夜の紅茶」に代表されるような作品群は「私」の領域に属している。人は誰しも「公」と「私」の両方の世界を持ち、そのために、身体の中には異なる2 種類の「時」が流れている。ところが江藤氏にあっては、この2 つの「時」の流れの落差が極めて大きく、そのギャップを肌で感じることが、氏の著作を読むことの魅力のひとつでもあった。
実質的に、江藤氏の最後の作品となった「妻と私」には、二人の間にどんな挟雑物も介在しない、純粋な「私」の世界が描かれている。