多川 俊映
2012年07月10日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2012年07月10日 |
多川 俊映 |
住まい・生活 |
その他 |
情報誌CEL (Vol.101) |
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心豊かに暮らす。近年、私たちの社会が掲げる重要テーマだ。
ある意味で、物の世界の限界や、効率優先の世界の光と影を見た結果かもしれない。しかし、そのわりには、「心豊かに」といいつつ、物へのこだわりも依然として顕著だし、「スローでいこう」とはいうけれど、実態はほとんどファストで動いているではないか。つまり、この私たちの社会の重要テーマも、実際はほとんど掛け声倒れに終っているように見受けられる。そこで改めて、心の豊かさとは何か、ということを考えてみたいと思う。
私たちが暮らす社会というのは概ね人間関係で成り立っており、だから、感情の問題が幅を利かせている。知・情・意の三つが心のはたらきだとはいえ、知的な判断あるいはそれにもとづく意志が感情に左右されて、効果を発揮しない。私たちの日常世界は複雑だといえば複雑だけれど、結局は好都合・不都合の問題に集約されてしまうのだ。
他ならぬ自分も含めて、あらゆることがらは変化してやまない―。 というのが事実であり真理、否定はできない。が、私たちの有体は、好都合な人との関係や好都合な状況はできるだけ持続したい一方、不都合な人・不都合な状況には排除の論理を適用し、視野の外に押し出そうと必死である。
なるほど、そうして不都合を排除し、好都合ばかりに取り囲まれたら、気分は上々だろう。しかし、そんな日常の暮らしが本当に「心豊か」なのかどうか。
わが座右の『菜根譚』には、
― 錯集成文(錯り集り、文を成す)なのだとある。さまざまなもの・種々雑多なものが集る中にこそ、アヤがあるというのだ。
文はまた、〈綾〉であり〈彩〉だ。 つまり、いろいろなものが錯綜する世界こそ、本当に豊かな世界だというのである。
むろん、そこには不都合なものも含まれるが、それをも大きく受け止めなければいけない。つまり、不都合を排除して気分がいいかもしれないが、そんな単細胞化しようとする心を鍛えるわけだ。そうした中にだけ、心が一回りも二回りも大きくなり豊かになる契機が潜んでいるのだと思う。
だから、心の豊かさを求めるというのは、いってみれば、一種の闘いである。そのコトバがかもし出す甘い気分なぞ捨ててこそ、と心得たいではないか。