柴崎 友香
2017年07月03日作成年月日 |
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2017年07月03日 |
柴崎 友香 |
住まい・生活 |
ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.116) |
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わたしが子供のころによく行っていた公園の片隅には、「近代紡績工業発祥の地」の石碑があった。明治の半ばに、大阪紡績会社がここで操業し、大阪の紡績工業を支える基盤となった。もっとも、中華鍋を傾けたような形の滑り台で遊んでいた当時は、そんな歴史も石碑があることも知らなかったのだが。
紡績工場が発展を続けていた時代、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれていた。もしくは、呼ばれようとしていた。「煙の都」とも形容されていた(当時の「煙」は誉め言葉である)。現代の大阪の街の形は、そのころに作られた。
今年の2月、日本文学を紹介するイベントに参加するため、初めてイギリスを訪れた。ロンドンの翌日、特急列車で2時間半のマンチェスターでもイベントがあった。熱狂的なファンのいるサッカーチームとロックバンドのストーン・ローゼズやオアシスのイメージくらいしかなかったのだが、駅からホテルに移動するタクシーのほんの5分の道程でビクトリア時代の栄華を今に伝える街の風景に圧倒された。
煉瓦造りの豪奢な建物がずらりと並ぶ。それも8階建てや10階建てが多く、前日までいたロンドンに比べても迫力があった。市庁舎はまるでゴシック教会のようで、内部は床、壁、天井、窓枠、ドアノブと、これ以上意匠を凝らす場所がないというほど壮麗な装飾が施されていた。隣には巨大なドーム型の閲覧室を中心にした図書館。19世紀、いかにこの街が世界の中で繁栄を誇っていたかを、そして大阪が東洋のマンチェスターに憧れ、目指したことの意味を、やっと心底理解できた。
外国を旅行していると、大阪みたいやな、と思うことが度々ある。
ニューヨークのマンハッタンの碁盤の目の区画や一方通行が交互に定められているまっすぐな道路も大阪を思い出したが、街のハード面よりも、やはり人と距離に対して感じることが多い。ニューヨークのメトロポリタン劇場でチケットの列に並んでいたら、後ろのおばあさんがわたしの携帯の待ち受け画面を見て、猫が好きなのか、うちには2匹いる、と話しかけてきた。エレベーターや信号待ちのわずかな時間にも、見知らぬ人となにかしら話すことは何度もあった。
わたしが商店街のそばで育ち、家は自営業、自転車で15分ほど走れば難波のど真ん中という環境だったせいもあるが、とりわけ、市場的な場所に行くと、大阪っぽいと思う。ホーチミンの公設市場のごちゃごちゃとした活気や店のおばちゃんの愛想とちょっと強引なくらいの売り込み。