情報誌CEL
入唐僧・空海が日本にもたらしたもの
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備考 |
2017年10月31日
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川﨑 一洋 |
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情報誌CEL
(Vol.117) |
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真言宗の開祖であり、傑出した思想家・芸術家であった空海。
唐の新しさを日本へ移入し、どのように曼荼羅的な独自の密教思想をつくりあげたのか。
博学的な知識と類まれなる好奇心、内外のネットワークをもとに、言語、美術、書、教育、土木技術など、ソフト・ハードの両面において文化の翻訳に従事した空海の事績から、その方法論を学ぶ。
嘆願書をしたためる
艱難の身を亡ぼすことを知れども、しかれどもなお、命を徳化の遠く及ぶに忘るるものなり。
〈その道程が困難で、時として命を落としてしまう危険があることを知りながら、遠く聞き及んだ皇帝陛下の徳に触れたい一心で、死の恐怖を忘れてやって参りました。〉
(中略)
猛風に頻蹙して葬を鼈口に待ち、驚汰に攅眉して宅を鯨腹に占む。
〈大風が吹けば、恐ろしさに顔を顰め、自分の屍が海亀の餌になってしまうことを覚悟しました。大波が寄せれば、驚いて眉を寄せ、海に放り出されて鯨の腹の中に呑み込まれてしまうことを思いました。〉
(中略)
乍に雲峯を見て欣悦極まりなし。赤子の母を得たるに過ぎ、旱苗の霖に遇えるに越えたり。
〈突如として陸地に聳える高い山が見えた時には、喜びのあまり感極まってしまいました。その喜びたるや、赤子が母に会って胸に抱かれた時の喜びよりも、旱魃で枯れゆこうとする苗が雨を得た時の喜びよりも、はるかに大きなものでした。〉
これらの文章は、弘法大師・空海が記した書簡の中でも名文として知られる、「大使、福州の観察使に与うるがための書」からの抜粋である。
延暦23(804)年8月10日、空海を乗せた遣唐使の船は、1ヶ月余り海上を漂い、九死に一生を得て福州長渓県の赤岸鎮に流れ着いた。しかし、天皇の国書を携えていなかった一行は、船を封鎖されたあげく、砂浜に建てた仮屋で50日にも及ぶ待機を強いられたという。
そこで、唐の言葉に巧みであった空海が、遣唐大使の藤原葛野麻呂に代わって筆を執り、入国を請う嘆願書をしたためた。それが、前掲の書簡である。
教養に満ちた、格調高い空海の文章は、福州の役人たちを感服させ、一気に事態の打開へとつながった。空海の、鮮烈な国際舞台へのデビューである。
さて、かくのごとく入唐を果たした空海が、仏教に関するもの以外に、日本へ何をもたらしたのか。本稿では、その一端を紹介しながら、宗教家としてではなく、「文化人」としての空海が残した功績について考えてみたい。