池永 寛明
2018年11月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2018年11月01日 |
池永 寛明 |
都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.120) |
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ここは図書館ではない。中国の深センで最も大きな書店である。通路に階段に床に座り、本を貪り読む子どもたち。礼儀正しく知的で、取材の際にも日本のことを一言も漏らさず聴こう、すべてを吸収しようとする深センの若い経営者たち。かつて日本人もこのような鋭い目だった。
深センで、こんな話を聴いた。「みんなで話をして、"こんなものがあれば良い"とアイデアが浮かぶ。じゃ、それをつくってみようと友人と相談して、1時間で"形"にする。それを市場で試し、お客さまの反応を確認し、修正して、その日中にまた試す。こうしてすごいモノ・サービスが高速で生まれていく」と。
深センは実験都市だから、20〜30歳代が6割を占める若い都市だから、できることだというが、それだけではない。この空気はかつて日本でも確実に流れていた。
「日本はさびた。日本の速度は遅い。物事を決めるのに時間がかかりすぎる。日本人だけで群れて、"世界基準"からずれている。日本はどこで"道"を間違ってしまったのか」と、アジアで、"日本の今"を何度も訊ねられた。
本当に日本は「あかんようになった」のか?「iPhoneを日本のショップで買う、マクドナルドも日本のマクドナルドで食べることに、意味がある」と、中国の実業家が言った。セブン‐イレブンもマクドナルドもアメリカ発であるが日本で洗練され、世界に展開したことを、サーティーワンもミスタードーナツもみんな「Japan Made」で、日本で本物になったということを、中国人は知っている。
海外の物真似では決してない。海外から入ってきたモノ、コト、技術、サービスを、日本人の感性によって磨きあげて、洗練さ、心地よさを生みだした。私たち日本が失いかけているのは、これらを生みだす「五感」かもしれない。
前号のオランダとデンマーク、イタリアで掴んだのは、「技術と社会をつなぐのは文化」であるということだった。今号訪れた中国、シンガポールの各都市を歩いて感じたのは、日本には他の国にはない「文化力」があるにもかかわらず、生かしきれていないのではないかということであった。
ルネッセを求める旅は、最終コースに入る。ルネッセとは文化の核心である「五感」をとり戻すことではないかと考えながら、深センとシンガポールの旅から帰ってきた。