豊田 尚吾
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2009年01月08日 |
豊田 尚吾
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エネルギー・環境 |
地球環境 |
情報誌CEL (Vol.87) |
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はじめに〜水とダイヤモンドの説話〜
経済学を学んだことのある人ならば、初学者向けの「水とダイヤモンド」という“お話”を聞いたことのある方も多いと思う。どのような話かというと、「水は人間が生きていくためになくてはならないもの。一方、ダイヤモンドは別になくても命に別状はない。しかる
に水のような価値の大きな財は価格が安くて、ダイヤモンドのような価値のないものが、価格が高いのはなぜなのか?」というものだ。
一言でいえば、水は需要に応えるだけの量を供給する際に費用があまりかからない一
方、ダイヤモンドは多額の費用がかかるからということになる。当たり前のようだが、そこには「希少性とは何か」という学びがある。経済学でいえば、需要曲線と供給曲線の交点で価格と生産(供給)量が決定するという「理論」につながっていく。
さらには、モノの価格(値段)を最終的に決めるのは、これ以上高いなら買わないと考える最後の(限界的な)購入(需要)者が主張する値段であり、それは同時に、生産(供給)者が、それだけの量を生産した場合の最後の一つ(一単位)を作る時に必要な費用と一致する。ただし、望ましい市場の条件が満たされているという前提の上での話ではあるが。
このように、当たり前のような話の中に、経済学を学ぶ際に重要な概念が含まれているという点で、「水とダイヤモンド」はよく利用される話なのである。そしてもう一つの
気づきとして、“価値”というものは一つだけではなく、「使用価値」と「交換価値」があり、それらは一致するとは限らない(むしろ一般的には異なるものである)、というものがある。無論「水とダイヤモンド」においては、水は、使用価値は大きいが交換価値は小さい財の代表として取り扱われているというわけだ。
ところが、世界的視野で水問題をとらえると、この話は通用しない場合がある。しかも今後、ますます「水とダイヤモンド」の説話が不適切になる地域が増えていきそうなのである。拙稿は、生活者がそのような問題をどう理解すべきかについて論じることを目的とする。