橋爪 節也
2008年03月21日作成年月日 |
執筆者名 |
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2008年03月21日 |
橋爪 節也 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.84) |
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おおさか美術館ストーリー
─商都の博覧会で花ひらいた“美の殿堂”─
日本人は、“美術館”を生活に無用で空疎な、「箱物」のイメージでとらえがちだが、世界の主要都市では、芸術的感動で人に生きる歓びや力を与える場であり、歴史を伝える教育機関であり、観光の拠点でもある。“美術館”こそ、ソフトそのものだ。都市を人体に譬えるなら、街の賑わいの記憶や感性を司る神経系統、脳の一部といえるかも知れない。さて大阪では?
大阪最初の「美術館」という名称の建物は、本町橋東詰の大阪府立博物場に明治二十一年(一八八八)建設された「美術館(博物場中央館)」である。上田耕冲らがこの建物に描いた巨大な天井画が、関西医科大学に移されて現存している。
大阪二番目の「美術館」は、明治三十六年(一九〇三)の第五回内国勧業博覧会で建設された美術館で、博覧会では洋画、日本画から彫刻、工芸、写真、印刷物など、膨大な点数の作品が展示された。建物は、博覧会終了後も大阪市立の大阪市民博物館として利用された。
この二館は明治時代らしく殖産興業的な面が強かったが、次に大正九年(一九二〇)の市議会で建設が議決され、東京、京都を抜いて、日本最初の公立美術館となるはずだった現在の大阪市立美術館が登場する。大正十四年(一九二五)に誕生する日本最大の都市“大大阪”を文化面で支えるための美術館で、開館は昭和十一年(一九三六)にずれ込んだが、学芸員中心の企画・常設展を主体に、作品を美しく鑑賞するための採光にも配慮する「近代美術館」を謳うのが先進的であった。
この新館建設について日本放送協会の伊達俊光は、「わが大阪市の如き物質万能の社会」において「厳然たる精神的の美の殿堂」として重大な任務を果たし、「美術館が発揚する芸術的雰囲気がこの物質の塵都を幾許なりとも浄化」することを期待した(大阪毎日新聞)。
戦後は、吉原治良の「グタイ・ピナコテカ」のような個性的な民間の現代美術館が出来たほか、万国博美術館を府立現代美術館として再開する運動を在阪の美術関係者が進め、府立では実現しなかったが、昭和五十年(一九七五)に国立国際美術館として開館した(現在は中之島に移転)。昭和五十七年(一九八二)には、安宅コレクションの寄贈で大阪市立東洋陶磁美術館も開館する。