小川 知子
2007年01月31日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2007年01月31日 |
小川 知子 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.79) |
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「女絵師女うたびとなど多く浪華は春も早く来るらし」(吉井勇、大正九年)―モダニズムの時代、大阪は、女性が文化人として盛んに活躍する街だった。島成園、木谷千種、生田花朝、そして大勢の若手…日本画で文展や帝展、院展に名を馳せる女性たちは「商都」を「文化芸術」の街へと変貌させつつあった。だが、戦争をへて時は流れ、地元大阪でもその栄華は忘れ去られてしまう。八十年の年月を越えて、今、彼女たちの輝きがよみがえる。
もともと大阪では江戸時代から教養豊かな女性たちが文人画家として活躍していた。明治以降も、関東で名を馳せた野口小蘋は大阪の難波出身だったし、南堀江には河邊青蘭が暮らしていた。そんな街に大正元年(一九一二)、二十歳の新人・島成園が文展にデビューして注目される。女性画家といえば京都の上村松園と東京の池田蕉園が双璧をなしていた時代である。松園より十七歳年下の成園が登場し、京都・東京・大阪の三都に美人画の女性が三人いずれも画号に「園」を揃えたことで「三都三園」と称せられた。上村松園は孤高に画業をきわめ、池田蕉園は大正半ばに夭折した。対して、大阪では島成園に憧れて画家をめざす若い女性が多く育ち、大正から昭和初期にかけて比類のない活躍をみせた。
モダニズムの時代、若い女性たちは成園のように絵で自己を表現し、世に羽ばたくことを夢みた。商都大阪には裕福な家庭が多く、良家の夫人や令嬢(いとさん、こいさん)が稽古事として絵を学ぶ習慣もあった。貧しい家庭の子女も職業画家を志して地方から大阪に集い、画塾に通って文展、帝展、院展をめざした。
だが、当時の美術界は当然ながら男性中心で、女性が一人前に評価される機会は少ない。女が絵を描き、真に自立した画家になるのは困難な道で、結婚や出産によって挫折した女性も多かった。