橋本 佳也
2007年01月31日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2007年01月31日 |
橋本 佳也 |
住まい・生活 |
その他 |
情報誌CEL (Vol.79) |
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教育改革の議論が盛んである。過去にも何回か議論されているが、確かに最近は、より一層その必要度、緊急度が増していると感じさせられることが多い。学力低下、学級崩壊、いじめ、規範意識の低下等々、全て解決が急がれる問題点ばかりである。加えて、青少年による信じられないような犯罪やいじめを苦にした自殺などが次々と報じられ、まさに喫緊の課題である。
何故このような問題が起こるようになったのだろう? 昔の子供たちの学校生活、家庭生活とどこが違うのだろう? などと考えることがある。ゆとり教育への取り組みのために、学力が低下しているというのは理解はできる。しかし、学力低下以外の問題は何が原因なのだろう? 先生が多忙になったとか、先生自身の質についても問題視されているが、先生がいじめに加担したり、見て見ぬふりをするといった論外な事例は別として、規範意識の低下や犯罪の増加と先生の多忙さや質とそんなに大きな関係があるのだろうか? 自分の子供の頃を思い起こしてみても、規範意識等、普通の授業以外のことを特段学校で教えられた記憶はない。親に叱られた記憶がほとんどである。
このように考えていくと、過去においてもそうであったが、教育改革を議論する時、その対策の視点が、学校や先生に偏りすぎているという気がする。確かに学力低下等は、何よりも学校や先生に関係しており、大いに改革は必要であろう。しかし、例えば規範意識の欠如や犯罪の増加という問題は、むしろ家庭や地域社会の役割の方が大きいのではないか。昨秋から設置されている教育再生会議でも、家庭や地域社会による教育の重要性について指摘されている。大切なのは、その重要性や役割を謳うだけに止まらず、学校や教師の改革と同様に、具体的な対策内容まで提示されることだと思う。価値観や家庭のあり方の多様化により、昔のような役割を家庭や地域に求めることは無理で、学校がその役割も担う必要があるとの議論もある。しかし、全てを学校に任せるのは無理であり、家庭や地域も大きな役割を果たすべきであろう。