菅谷 富夫
2006年06月25日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2006年06月25日 |
菅谷 富夫 |
都市・コミュニティ |
都市システム・構造 |
情報誌CEL (Vol.77) |
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―失われた都市の記憶を求めて―
美術都市・大阪 発見 第一回
菅谷富夫 大阪市立近代美術館建設準備室学芸員
前衛写真家たちのモダン都市
大阪が「大大阪」と呼ばれ、御堂筋が開通し地下鉄工事が進められていた昭和七年(一九三二)、モダン大阪の生み出した都市芸術とも呼べる写真芸術は一つのピークをむかえていた。既に前衛的な作風で知られていた浪華写真倶楽部の小石清が代表作となる「初夏神経」を発表し、丹平写真倶楽部は第二回丹平展を開催し、その前衛写真ぶりが、東京の写真ジャーナリズムをはじめ全国の写真関係者の注目を集めていた。
昭和の初め、浪華、丹平といった有力写真倶楽部の例会の際、会場の前には当時でもそう多くはない自家用車が何台も並び、会員は撮影会と称して、貸家一軒分といわれた高価な最新カメラ「ライカ」を首から提げて郊外へと出かけていったという。
この時代、大阪写真界の中心は何と言ってもそのような写真倶楽部であった。浪華写真倶楽部は明治三七年(一九〇四)に創立された日本最古の現存する写真倶楽部であり、かたや丹平写真倶楽部は昭和五年(一九三〇)に創設されたばかりであったが、どちらも大阪を代表する写真倶楽部であり、第二次大戦で活動が休止を余儀なくされるまで「新興写真」と呼ばれた新しい写真のスタイルを開拓する旗手となっていた。
これらの写真倶楽部の特徴は、その会員たちがアマチュア中心であったということである。今でこそ「アマチュアはプロの下」と思われがちであるが、彼等はむしろ長所を存分に発揮した。「アマチュアは自由」なのである。尊敬に基づいた師弟関係はあっても封建的なそれはなかったし、裕福な商店主であったり大企業のエリート会社員であった彼等には、後の商業写真家たちのようにクライアントの意向に左右される不自由さもなかった。その自由さと大阪人の進取の気性が一体化した時、このアマチュア写真家たちが従来の絵画的芸術写真ではなく、ヨーロッパからもたらされた前衛的な写真を取り入れ、日本の写真界をリードしていったのであった。