河瀬 隆
2006年03月25日作成年月日 |
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2006年03月25日 |
河瀬 隆 |
住まい・生活 |
その他 |
情報誌CEL (Vol.76) |
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前回CEL七五号を皆さんの手元にお届けしたのは昨年の年末だった。今から思うとついこの間のような気もするが、各地に大雪をもたらした今冬もそろそろ終わり。春はもうすぐそこまで来ている。本当に時間の流れが速い。
そういう意味では少し前の話になるが、実はここ数年、密かに大晦日の恒例行事にしていることがある。それは、弊社社員が従事する大阪と京都のコールセンターへ陣中見舞いをし、その足で年の瀬もぎりぎりまで押し詰まった京都の町へ赴くことだ。
大晦日のこの日、コールセンターの現場へ行くのは、私なりのわけがある。ご存知の通り、お客さまからのご要望を受け付けるコールセンターは、大切な「お客さまとの最初の出会いの場」だ。そこでは日々、本当に沢山の(喜怒哀楽の)ドラマが展開する。その中で、お客さまのお役に立とうと、心を尽くす受付者の姿がある。その一所懸命な姿を見て、私はこの一年も実に多くの「元気」をもらった。だから、この日も頑張る仲間たちの様子を見て一年を締め括りたいと思うのだ。
そしてその後、新年の到来を待つ京都の町にわが身を同化させる。阪急河原町駅から地上に上がると、毎年ながら八坂神社へ続くアーケード通りは普段より外国からの観光客も多く、前へ進むのもやっとの賑わいだ。祝祭の前の浮き立った空気が喧騒の中で踊っている。すれ違う人々の笑顔からは、行く年への名残と来たる年への希望が交錯して見える。ようやく辿り着いた八坂神社の参道では、初詣の参拝客目当ての屋台店が準備におおわらわ。その空間にわが身を置いて、「去年の大晦日は、雪景色の清水寺だったなあ」と思いながら、この一年の時の流れを反芻するのである。
年が改まって、新年。今年の正月は田舎から出てきた母を連れて奈良の社寺巡りをした。そのひとつ、大和郡山市の慈光院に行ったときのこと。このお寺は茶道石州流発祥の地で、「境内全体がひとつの茶席」のような造りになっている。その日は案外人影も疎らで、早朝の寒雨にしっとりとした苔の薄緑が印象的であった。正月三が日は、近年再建された本堂に入ることもできる。その天井には龍が描かれ、手を拍つと鳴くような残響が降ってくる。「この『鳴き龍』を聞くと長生きできますよ」と言われ、私たちは喜んで何度も手を叩いたのである。
参拝を終え振り返ると、中庭を挟んでちょうど正面に茶室があり、その壁面に掛かった木札の「什麼」という文字が目に留まった。ご老師にその意味を尋ねたところ、中国語の疑問詞(「什 」=shénme)で「何」ということ。そこには「何ゆえに」「何故」という含意があるとの講釈をいただく。「今、何を求め、何ゆえに我は在るのか。そしてこの世も――」。日々自問を繰り返す中で、人それぞれの「何」かが見えてくる。
深い精神世界のことは別として、ひとつ言えるのは、何事にも「何ゆえに」「何故」という問いかけを忘れたならば追究する心や行動を失い、何かがそこで止まってしまうということだろう。「こんなもんでいいんだ」と思った瞬間、自らの成長も進歩も全部止まってしまう。限界はすべて自分の心が決めているのだ。――この年の始まりに、私にとって「もうひとつ」の小さな旅の始まりが、そこにあった。 ――河瀬 隆