松本 コウシ
2005年12月25日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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媒体(Vol.) |
備考 |
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2005年12月25日 |
松本 コウシ |
都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.75) |
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日常に遍在する芸術性
写真における風景との出逢いの瞬間、それはその場所に対して何か特別な奇異感を抱いたときです。見慣れた小さな日常の中に在りながら、厳かに自らを主張する風景たち。しかし、こちら側がアンテナを立てていないかぎり、風景たちが発しているアウラ{Aura} は決して受信できないのです。カメラという記録装置が時間を切り取るタイムマシンまがいなことができるとしても、現実が進行形であるかぎり、容赦なく次の現実がやってくる。でも稀に時間の遠近感の狂った風景が目の前に唐突に現れ、フィルムにもうひとつの現実が定着されることもあるわけです。今宵出逢った奇妙な風景は「柱」。最初の写真は、とあるホテルのエントランスに建っているシンボル的存在の柱。もうひとつは神崎川に建設中の水門の一部分。両方とも非常にインパクトがあり芸術的でもあるのですが、二つの風景には決定的な違いがあります。それは前者の顔をモチーフにした柱が意図的な芸術性をもってつくられたのに対して、後者の水門の柱は意図的ではなく、工事途中において偶然生まれた芸術性だということです。今、まるで遺跡の様にも見える水門支柱の台座には、やがて水門の機能を果たすべく機械や金属部品などが取り付けられ、どこにでも在るような水門として周りの風景に違和感なく溶け込んでしまうのでしょう。