久野 昭
2004年03月26日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2004年03月26日 |
久野 昭 |
エネルギー・環境 |
エネルギー・ライフスタイル |
情報誌CEL (Vol.68) |
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はじめに
古代日本の神話では、日や月やその他の神々の母イザナミから最後に生まれたのが火神であって、ホムスビ(火産霊)とも、カグツチ(軻遇突智)とも呼ばれている。ホムスビのホとは火であり、その火がさまざまなものをムスブ、つまり繁殖させるところから、この名は出た。カグツチのカグは光がちらちらする意、チは霊である。
この火神を産んだために妻が焼け死んだのを恨んで、イザナギが剱を抜いてカグツチを斬り殺す。「この時に斬る血が激しく飛び散って、たくさんの石や樹木や草に染まった。これが草木や沙石のおのずからに火を含むことの起こりである」と、『日本書紀』の一書は伝えている。ここで沙石とは、おそらく燐をさすのだろうが、この一書の伝承者に血の色から火への連想があったとしても、ここで語られているように、小石や樹木や草がおのずからに火を含んでいるという発想、そしてホムスビの名が示すように、火こそさまざまなものの繁殖の源とする考え方が古代の日本にあったことは、確かだろう。もしそうなら古代の日本人にとっては、人の奥底にも火があったと考えても不自然ではないことになる。
それはともかく、少なくとも比喩的には、激しく燃えさかる恋慕や憤怒の感情が火として表現されるのは別に珍しいことではない。例えば、これは恋人への思慕ではなく、大切に飼っていたのに何処かへ飛んでいってしまった鷹への切ない思いなのだが、「言ふすべのたどきを知らに心には火さへ燃えつつ思い恋ひ」(『萬葉集』巻第十七第四〇一一番)と詠んだ歌人もある。そして、現代の私たちも、このような表現にはほとんど違和感を抱くことはない。それだけ、私たちの心には火を受け入れる下地があると見てもよかろう。その下地に訴えて、「火の穂」の力について書いておきたい。