太田 順一
2004年03月26日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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備考 |
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2004年03月26日 |
太田 順一 |
都市・コミュニティ |
まちづくり |
情報誌CEL (Vol.68) |
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原稿を書かなければならないとき、私はよく散歩に出る。家でじっと机に向かっているより、そのほうがいい考えが浮かんだり、頭のなかをすっきり整理できたりするような気がするからだ。
私の家は奈良市の外れのベッドタウンにあって、住宅地を抜けて池のほとりに出ると、東に若草山、西に生駒山を遠く望むことができる。その池の周りを小一時間歩くのだが、草むらに花を見つけるとしゃがみ込み、鋭い鳥の鳴き声に立ち止まって梢を見上げ、甲羅を干す亀にふと脈絡もなく昔のことを思い出す。たそがれどきなら、落日に染まった山の美しさに茫然と見入ってしまう。
結局いつも、原稿のことなど何ひとつ考えないまま帰ってきて、そして机の前で呻吟するはめとなる。でも気分は一新されたのだから、散歩の効用はあるというものだ。
町なかの長屋暮らしが見直されている。若い人たちが古い長屋を改修して、住居だけでなくアトリエや店舗として活用しているのを私も取材で見て回って、その人間の身の丈に合った生活空間の程よい小ささに魅力を感じている。老いたら逆に都心で暮らしたいとの思いもあったから、なおさらだ。
一方で、散歩に出たときに味わえる豊かな自然の恵みが、今いる場所に私を引きとめる。
アナーキーに増殖してきた都市の市街地に比べ、郊外のニュータウン、なかでもデザインのしっかりしたところでは、自然の地形をうまく生かして街が造形されている。そんなニュータウンを歩いていて、ここに住めたらいいな、と思える一瞬がある。それは、川や丘に沿った散歩にうってつけのコースを見つけたときである。