栗本 智代
作成年月日 |
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2002年10月31日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.63) |
最近、大阪でおしゃれな若者の関心を集めており、ファッションやグルメ雑誌に必ず取り上げられているのが、堀江界隈である。近年、レトロな雰囲気のカフェ・レストランや雑貨・インテリアショップが急増し、新たな感覚の空間づくりが注目されている。
しかしこの界隈は、もともと水の都・大阪を代表する堀割のまちの一画で、元禄期に開削された堀江川の誕生を契機に堀江新地が開発され、茶屋や夜店市、勧進相撲などが許可された遊所であった。廓のまち新町とあわせて、大変な賑わいをみせていた。また、江戸時代から材木問屋や古箪笥を扱う古道具屋が多く、それが転じて家具のまちとして発展した歴史を持つ。それらの歩みをベースに、昔の店舗や倉庫をリニューアルしたり賃貸ししたりして、老舗と新しい店が共存する形で、いろいろなタイプの店が増えてきた。また、住民の感覚から生まれた交流の「場」やネットワークも、新しい賑わいづくりのきっかけとなった。こうして堀江は、大阪を代表するほどの、ライフスタイルに関する文化の発信地となったが、そこには家具屋店主たちや、このまちにこだわる住民による仕掛けや冒険の積み重ねがあった。
堀江の賑わいの歴史
元禄十一( 六九八)年、河村瑞賢が堀江川を開削し、この川の北側を「北堀江」、南側を「南堀江」と通称するようになった。幕府は、堀江新地繁栄のため、同年末に、茶屋株六十八軒、煮売株三十一軒、水茶屋三十一軒、湯屋株五軒、道者宿株百一軒、髪結床二十六か所、能舞台・芝居各三か所、他相撲、魚市、青物市などを許した。実際にまちが賑わいはじめたのは寛文二年頃からで、当初は、阿弥陀池和光寺への参詣人のために五軒茶屋が建ち、茶立て女を置いていた。また堀江が相撲の定地になると、角刀茶屋の名義で色茶屋ができた。和光寺東門前通りを北へ曲がるあたりにも四十七軒の茶屋があり「いろは茶屋」と呼ばれた。以来、「元禄以前の古町と、新地の町と入交りて、追々繁華の地(『摂津名所図会大成』より)」となった。北堀江・南堀江は問屋街として発展し、北には北海道産物、薩摩方面の問屋が、南には藍玉、砂糖、荷受、炭屋街などがあった。