栗本 智代
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2002年07月31日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.62) |
この地域は、そんな住民たちによって積極的に町づくりが行われてきた。ノリがよく、無理をせず遊び心を大切にする。その発想のユニークさと自治・調整の技術は“平野人気質”からくるものかとも感じたが、まちや暮らしを考えるのにもっとも大切なものを教えられた気がした。
1. 平野郷の歴史〜環濠自治都市、平野〜
平野は、太古から開けており、縄文・弥生時代の遺跡も多く出土品が多数出ている地域である。地名は、平安時代の弘仁年間(八一〇年頃)征夷大将軍であった坂上田村麿(たむらまろ)の次男、広野麿(ひろのまろ)が領主となったため、その「広野」が訛って「平野」になったと伝えられている。この地を領有した坂上家は「平野殿」と呼ばれ、そこから分家していった一族で土地を分割して開発し、各々園地名田主として治めた。これが平野七名家(しちみょうけ)である。中世から近世にかけて、平野商人がめざましく活躍するが、中でも七名家の一つ末吉家は朱印船で海外貿易にも進出する大商人となった。こうして得られた富で、自治都市としてのまちづくりが進められていく。
戦国時代、交通の要衝として発展していた平野は幾度か戦禍に巻き込まれたが、自衛手段として、二重の堀、二重の土居で町を囲み、十三の惣門、遠見矢倉などを設け、「環濠自治都市」平野郷となった。信長・秀吉の直轄地となり大坂夏の陣でほとんど焼失したものの、江戸時代には復興し碁盤目の町割が完成、繰綿の産地として発展した。また文化的な活動も盛んで、杭全(くまた)神社での連歌会や夏祭りなどの伝統行事や「含翠堂(がんすいどう)」という学校の誕生など、社寺とともに、古い歴史と文化が今日まで生き続けている。