栗本 智代
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2001年05月08日 |
栗本 智代
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都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.57) |
この春、大阪此花区に、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開幕した。この大規模テーマパークにより大阪の集客力が強化されることは間違いないが、、アメリカ文化の遊園地ではなく本来の大阪のまちが、ビジターや住民をいかにもてなし充足感を与えることができるか、未開拓の部分が大きい。大阪の歴史・物語や個性を見直しいかに再編・再生させるか、その可能性を探る“大阪再発見”。以前の連載からしばらくお休みをいただいていたが、心新たに再開することにした。(以前の連載は、「大阪 水の都に浮かぶ劇場」(KBI出版 )として一冊にまとめさせていただいた。ご高覧いただければ幸いである。)
大阪は、「国際集客都市」という目標を掲げているが、それには、交遊・迎賓基地であると同時に「ミュージアム文化都市」と呼べる程のホスピタリテイの向上と発信機能が必要であろう。これらを意識しつつ未来への展望も試みたい。 今回は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンで注目を浴びている此花区界隈を取り上げる。実はこの地域は、昔から大阪のまちの転換と進化を物語ってきたのである。
1. 西成鉄道の開通から工業都市へ
歴史を振り返ってみよう。周辺を山に囲まれた大阪は上町台地をのぞくと半島状の浅い入り江であり、河川が運ぶ土砂で三角洲(デルタ)地帯が形成され、市街地へと成長した。徳川時代、急速に開墾が進み土地が沖合いにさらに伸びた。此花区はもともと葦のしげる渚であったが、寛永元年より四貫島・申・春日出・酉島・恩貴島・西野・六軒屋・島屋・南・秀野・常吉の順で開墾され、全て徳川氏の直轄地としてその支配下に置かれた。<地図参照> 港津として豊臣時代から繁栄していた“伝法港(伝法口)”を除くと、この界隈のほとんどが一望千里の農業地帯であったが、明治期には、徐々に新事業が勃興する。
明治31年4月、西成鉄道株式会社による大阪―安治川口間が開通し、38年には安治川口より天保山間(43年に桜島駅と改称)まで延長、大阪築港工事も進行する中で、大小の工場が続出した。