下村 純一
2010年10月01日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2010年10月01日 |
下村 純一 |
都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.94) |
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うっそうと木立の繁る「南禅寺」境内の一画に、古代ローマの水道橋そっくりのレンガ構造物「水路閣」がある。明治の西洋化の象徴ともいえるレンガと日本古来の寺院との組み合わせが何とも不思議で、興味をそそる。
“琵琶湖から京都に水を引く”。第3代京都府知事の北垣国道は、遷都以降、沈滞を続ける京都の産業活性化の切り札として、慶長年間にまで遡るこの夢の実現を決める。水利、水運は生活と産業の基本であり、同時に水車エネルギーという動力も得ようという琵琶湖疎水計画に、北垣は着任直後の明治14(1881)年着手する。外国人技士たちが、こぞって不可能と断じたその一大土木事業に立ち向かったのは、工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎である。貫通すべき山に縦坑を掘るなど、当時の技術水準を超える方式を30歳そこそこの若き技士は考案し、着工の5年後の明治23年に完成させる。完成した水路は、水路閣のある白川分線も含めて、大津から京都鴨川まで全長19.3kmにも及んだ。
想像を絶する困難が、工事には待ち受けていただろう。しかし、そんな大変さを露ほども感じさせない水路閣の涼やかな表情に驚かざるを得ない。台柱、アーチ、壁の飾りのいずれもが、美しい“建築顔”をしているのだ。田辺は土木技士である。不可能といわれたトンネル貫通に心血を注いだはずだ。しかし、彼はそうして造った諸構造物を、建築としても美しく見えるように仕上げる余裕もみせた。
確認するために、琵琶湖畔の三保ヶ崎取水トンネルから疎水を辿ってみた。取水口は、そこが起点と誇るように古代ギリシアの神殿仕立てだ。第2トンネル出口は、ゴシックの尖頭アーチである。側壁は丹精なイギリス積みのレンガ壁で、中世の城を再現しているようである。続く第3トンネルは、ルネサンスの宮殿風。そして分線には古代ローマの水道橋があるなど、まるで西洋建築のテーマパークだ。
疎水は、運河としても活用された。京都への上りが1時間半、流れに逆らうので下りは2時間半の船旅は、トンネルがまったくの暗がりだったはずで、恐怖さえ覚えただろう。そんな旅人の心を和ませようとする田辺の心配りが、構造物に建築美を与えたのではないだろうか。これまでは、どちらかというと機能優先だった土木構造物を、美しくデザインすることで環境づくりにも貢献させようという21世紀の考えを、120年前の琵琶湖疎水は、既に実現していたのである。