猪木 武徳
2012年01月05日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2012年01月05日 |
猪木 武徳 |
住まい・生活 |
消費生活 |
情報誌CEL (Vol.98) |
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-消費行動に潜む公共性-
意識して正面から考えたことはなかったが、人間の消費行為の倫理性を問うことには重要な意味が含まれていることに改めて気付いた。消費は、個人が「自由に」行うものだ、という点ばかりが強調されるため、そこに個人の「こころの行儀」(私的な徳)としての倫理問題は存在するものの、社会的な(公の徳としての)倫理問題が存在することを見過ごしていたのだろう。
「こころの行儀」の問題としては、例えば次のようなケースが思い浮かぶ。すこし経済的に余裕ができたので、ついつい「衝動買い」をしてしまい、その後その購入物を使うことは全くなく、放置されたままにする、いわゆる「無駄」と「浪費」である。逆に、消費すべき時に、出し渋る「吝嗇」によって、周りの人間を物質的・精神的に不快にさせるのも私的な不徳であろう。
しかし社会に生きる人間は、「こころの行儀」(私的な徳)だけには収まりきれない倫理問題を抱え持っている。消費行動は、他人に対して、社会に対して、次のような問題を起こしうるからだ。例えば、誰の眼から見ても「悪趣味」の一語に尽きる構造物を建てたり広告看板を出して、近隣の住民から即時撤去や取り外しの運動を起こされるという報道に接することがある。これは、消費(あるいは投資)行動が経済学で言うところの「外部性」を持っていることを意味する。
この「外部性」は生産に関してはこれまでしばしば論じられてきた。「公害」問題はその代表的なケースであろう。ひとつの企業の生産活動から生み出された負の副産物(例えば有毒物質)が、近隣の農業あるいは漁業に大きな打撃を与える場合、どのような解決策が可能なのか。ひとつは技術的な解決を求めるということ、いまひとつは汚染物を発生させた企業から他企業あるいは近隣住民への損害賠償をどう支払うのかという補償問題として論じられることが多かった。実は、「消費」活動にもこうした生産の「外部性」と類比的な問題が存在するのだ。
ただし消費の場合、何をもって「負の副産物」とするのかは難しい。悪趣味な衣装を身に着けている人に、「その服は不快だから変えてほしい」と言える場合はほとんどない。風紀を乱す、あるいは公序良俗に反すると断定できるケースと「表現の自由」との境界線は曖昧なことがあるからだ。
もうひとつ、「倫理性」が問われるのは、ある財の消費の行き過ぎがその財の供給量を枯渇させ、後の世代からその財を享受する可能性を奪ってしまうような「不平等」である。神から与えられたこの世の恵みを、ひとつの時代、ひとつの世代の人間が独占的に消費してしまうという「非倫理性」の問題である。実はこのような、ある時代、ある世代の独占的な消費が例として歴史的になかったわけではない。独占的消費によってこの世から完全に姿を消してしまった財や資源は少ないかもしれないが、濫獲や過剰消費によって値段が急騰して「高級品」と化し、後生世代の一般の人びとが消費できなくなった動物や資源などは、その例をいくつか挙げることができよう。
最後の例として、「流行」の問題も挙げておこう。ひとつの財が圧倒的な勢いで市場を制覇したために、その財と競争的・代替的な関係にあった財が市場から駆逐されてしまい、少数派消費者の嗜好の選択肢が消えてしまうということがある。