赤坂 憲雄
2012年03月26日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
カテゴリー |
媒体(Vol.) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
2012年03月26日 |
赤坂 憲雄 |
都市・コミュニティ |
地域活性化 |
情報誌CEL (Vol.100) |
ページ内にあります文章は抜粋版です。
全文をご覧いただくにはPDFをダウンロードしてください。
-「生きとし生けるもの」への供養と鎮魂-
鹿踊りは、岩手県から宮城県一帯に伝わる民俗芸能の一つだ。獅子にも似た鹿頭を被った踊り手が太鼓を打ち鳴らし、激しく乱舞する。そのさまは勇壮でときに猛々しい。東北を訪れた岡本太郎はこれを見て大いに感銘を受け、その印象をいくつかの文章や写真に残している。
昨年5月末、宮城県の南三陸町を訪ねた時に、東日本大震災の津波で壊滅した水戸部という集落で初老の漁師から興味深い話を聞いた。家をまるごと失ってしまったその方は、被災後しばらくして、大事なものが残っていないか瓦礫のなかを探し歩いたという。そのなかで見つけたのが鹿踊りの太鼓と衣装だった。きれいに洗って仲間たちと一緒に避難所で踊ってみたところ、地元のおばあさんたちが緊張の糸が切れたように涙を流したというのだ。その集落には鹿踊りの供養塔があって、津波にも流されず残っていた。そこには「生きとし生けるものの供養のために踊りを奉納する」と刻まれていると聞いている。
興味深いことに鹿踊りは、仙台藩、伊達正宗の庶子が宇和島に入封して以来、彼の地にも伝承している。私が7、8年前に伊予地方で見たのは、秋の収穫祭で奉納される「感謝と祝福」の踊りだった。剥製のような鹿頭はどこかやさしげで、踊りは優美で女性的、もっといえば植物的だった。あの男性的で躍動感あふれる踊りがこうも変わってしまうのか、といささか衝撃を受けたものだ。
この違いはどこから来たのだろうか。背景には、厳しい東北の自然風土と深く関わってきた東北人の暮らしがある。先に述べた南三陸町の集落にしても地形的に海と山が近い。そのなかで漁師たちは鹿猟をして、里山を育てる役割も担わなければならなかった。西日本に比べると、生き物の命を奪わなければ生きていけない。それだけ生活のなかで生き物との交渉が濃密で「生きとし生けるもの」すべてへの供養と鎮魂がリアルな行為であった。西日本ではこうした感覚は希薄なのだろう。それが踊りの違いに際立って現れているのだ。
-失われた「祭りの風景」の再編-
このように東北の祭りや民俗芸能には「鎮魂や供養」というテーマが濃密に流れている。ねぶたや竿灯にしても厄災を祓うというテーマがある。宮沢賢治に「原体剣舞連」という岩手の民俗芸能を見て書かれた詩歌があるが、ここに登場する子供たちの勇壮な剣舞も盆供養として行われたものだ。〈3・11〉で多くの町や村がその土地に住む人とともに流されて、大勢が亡くなった。一時は東北の夏祭りは開催が危ぶまれたが、それでも被災地の瓦礫のなかから祭りや民俗芸能が次々復活していった。それだけ人々は祭りに飢えていたし、犠牲者の鎮魂が求められていたのだろう。あるいはもっと根源的には、生き残った人たちが、祭りや民俗芸能がその土地に住む証し、生きていくことへの励ましであることを、無意識に感じていたのかも知れない。いずれにしても東北の人たちは、この震災を経験して、改めて祭りや民俗芸能の力を再発見したのだと思う。