深見 茂
2012年03月26日作成年月日 |
執筆者名 |
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2012年03月26日 |
深見 茂 |
都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.100) |
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-山鉾行事を支えていた組織と精神
(江戸時代から明治31年ごろまで)-
特集のテーマにかんがみ、祇園祭自身の歴史や縁起については省略させていただきます。ただ一言、祇園祭開始の年とされる貞観11年(869)こそは昨年来、特に注目されるにいたった、かつて東北地方を大地震が襲った年、また富士山噴火等、日本の各地に大災害が発生したとされる年であり、祇園祭は単に京都の疫病退散のみならず、全日本の安寧と、犠牲者の鎮魂を願っての祭礼であったことを強調いたしておきたいと思います。
さて、今日の祇園祭の山鉾行事の直接のルーツは応仁の乱にて京都の町が灰燼に帰したのち、ようやく復興に転じ、祇園祭も本格的に再興、籤取式も初めて導入された明応9年(1500)であります。というのも、この年、30数基の山鉾が復活巡行をはたしたのでありますが、今日存在している32基の山鉾、および現在「休み山」(巡行参加不能)となっている3基の山鉾、計35基ほぼすべてが、この明応9年における名称、風流(どのような趣向の飾り物をしていたか)、町籍(どの町内が出していたか)、の3点をそのまま引き継いで今に及んでいるからであります。そしてこの最後に挙げました「町内」、これがこの章の主題であります。
すなわち、京都の町は中国の長安(現在の西安市)を模範として造営され、その中心部は現在も碁盤の目状になっております。その升目の一辺は約60間、すなわち約110mであります。そして、この一辺の通りを隔てて相対する両側居住区域(約30軒前後)、これがいわゆる「町内」であり、京都では最小の行政単位として江戸時代から「町中」と呼ばれておりました。つまり京都の中心部の町内は面ではなく線なのです。
そして、この町中に住まう住民、これは「町衆」と呼ばれる人々でありました。祇園祭の山鉾は、八坂神社(神仏分離前は「祇園感神院」)の氏子区域のこれら「町中」が所有し、「町衆」が運営に当っていたのであります。さらに、これら山鉾を保有運営する町中それぞれを、その周辺部の山鉾を持たぬ氏子数カ町の町中が、主として財政的に支援する義務を負っておりました(=「地の口米」)。これらの町中を「寄町」と称し、豊臣秀吉が導入した制度であるとされます。また、町衆は、担当役人(=「雑色」)の給料を負担していたほか、ことあるごとに相当の寄付の義務を負っていたようではありますが、他方、首都の市民として租税(=「地子銭」)は免除されておりました。